自然観 ―ヨーロッパとアジア―

宗教にみる『欲』と自然な流れ

  ―目次―
1、宗教の魅力
2、『欲』と宗教
3、『自然』と宗教
4、自然観・人間観
5、自然な流れ―人間・欲・宗教―
6、自然な流れ―人間・欲・科学―


1、宗教の魅力

 世界には様様な宗教が存在する。それぞれの規範とするものは異なるが、宗教が人々を引き付けるものは、普遍的なもののように思われる。それは、「苦」からの救済である。環境・文化・歴史の違いこそあれ、人々は何かしらの苦しみを抱えていた。そうした人々間から宗教が誕生した。キリスト教、イスラム教、仏教に挙げられる3大宗教において、それぞれが目指していたのは人々が平穏で(精神的な)幸せな状態でいることであった。3大宗教ともに、人間の本性としてもつの「欲」が「苦」を生み出すと説き、欲から解放されることで、平穏で安定した状態が得られると説いている。欲求が満たされないとき苦しみを味わう経験は、どの地域、時代をとおして普遍的にあったようだ。では、"安定した状態"とは何なのか?それは「欲」を取り除くことで自己中心でなくなり、自己の枠を取り外すことで他を思いやる気持ちが生まれ、"他との共存"が可能になった状態を指すのではないだろうか。全体における安定した状態は、個々の心の安定から生まれ、それは個々にとっても良いものであり、相互的な作用をする。この安定は人々の"幸せ=共存"といえる。
 具体的には、キリスト教では「欲」の存在を「罪」として捉え、神という万能的存在をおくことで神の前の平等を説き、自己中心を解く"隣人愛(他者を愛する)"で「罪」を償えるとする。「神」という他の存在を信じることで、「罪」を償うことを目標にして自己の安定をはかっている。
 イスラム教でも、唯一神をおき、隣人同胞の助け合いを大事とする。そして、ジハード(聖戦)や喜捨を行う。富と権力は利己主義・個人主義に走りやすく、助け合いの精神を忘れてしまう ので、これを"喜捨"を行うことで解決しようとした。ジハードは「神の道」=イスラム信仰のために敵と戦うべきこととしてコーランに命令としてある 。私から見れば、このような戦いは必ず苦しむ者がでるので人々の安静をもたらす宗教の役割から逸脱しているように思うが、信者たちは、戦いによる犠牲よりイスラム教を広めることを重視し、それが幸せをもたらすことと信じていたのだろうか、それとも国と国にとの権力争い、領地獲得争いで戦いが絶えなかった当時、人々の心には、安定した生活を得る為には戦い、犠牲者が出てもしかたがないという経験からの思いがあったのだろうか、信者は神のためだ、と戦い続ける。信仰とそのような歴史的背景からの人々の思いが、ジハードを支えているように思う。しかし、ジハードと喜捨は、ともに同じ行動、活動をおこなうことで信者の結びつきを強めさせようとする宗教外の政治的な背景が見え隠れしている。
 キリスト教・イスラム教では、神的存在をおき、ある行動(隣人愛、喜捨)をさせることで苦から逃れる方法をといた。人々にとって、その教えに従えば安静が得られるという信念が絶対的な神を信仰することで支えられている。
 一方、仏教においては、神的なものに求めず、自己自身に責任を科せる。「欲」は「煩悩」と捉え、修行をすることによって"自執を絶つ"ことを目指す。欲求の充足を求め、欲求対象に執着することによって苦がおこることを知らずに「苦」を取り除こうと充足に走るという悪循環の原因を知ること、つまり、無知こそが「苦」の原因だと知ること="悟り"で「苦」から解放されるると説く 。
 それぞれに宗教は、ひとの心を安定させる役割を果たそうとしている。



2、「欲」と宗教

 三大宗教を簡単に「欲」という視点から見たが、「欲」と一言でいっても、いろいろある。性的欲求は種の生存、生命の維持に必要であり、知的欲求は人間の生活、文明を発展させてきた。それぞれに欲求があるからこそ今の私達がいる。どの地域、環境、時代においても人々は平安な幸せと感じれる状態を望んでいた。それは逆に苦しい状態が存在するからこそ「幸せ」という概念が生まれたといえる。満たされない「欲求」と「幸せ」は表裏一体である。食や性を楽しみとして捉えることができ、技術を身につけ発展、進歩できる人間は、傲慢になる性質を持っている。限りない「欲」とそれをいさめる気持ちをもち、満たされないことから来る「苦」とそれを止められないことから来る「苦」を感じてしまう複雑な思考を持った人間。そこから、人間ゆえに独自にもつ能力(思考・想像)で、解決策を提案した。そのなかで説得性が高かったものが多くの人々を集め、宗教となっていったのではないか。そのアプローチの仕方は人々を取り巻く環境によって様様であったが、三大宗教を例にとってもわかるように共通するものがある。それは、人間のなかに普遍的な意識作業がなされているといえるのではないだろうか。宗教は時代を超えてさまざまな地域に伝来していった。全てが全ての伝来地域に完全に浸透しているわけではないが、人々に訴えるものがあるということは普遍的な意識・観念が存在することを証明している。宗教とは、「欲」をもつ人間がそれに伴う「苦」を体験し、「どうしてそうなるのか、どうしたらいいのか」と人間特有にある思考が無意識のうちになされできあがったものではないだろうか。この一連の流れは、すべてが人間がゆえに生み出されたものであると言える。こうした意味で、「欲」と宗教は自然な流れのなかに相互的に存在するように思われる。



3、「自然」と宗教

 環境問題を例にとってよく言われているように、今日宗教的思考が、科学によって薄れてきている。これは科学が、自然を客観的対象物としてとらえ、自然を人間と切り離してしまったからである。科学の発達とともに、人々の進歩・発展の欲求も膨らむ一方である。そして、科学を武器に何でもできるという傲慢さが増大し、人々は利己的になってしまった。それは、科学に人間の傲慢さを諌める"教え"がないからである。知的欲求から科学がうまれ、それが今まで宗教が信秘性をもって語っていたものを意図も簡単に合理的に解明してしまった。そのことで、万能と信じていた神を疑い、かつて謎につつまれた神秘性を持つものに畏れを抱く気持ちを持たなくさせてしまった。"教え"を欠いた科学が知的欲求から生まれ、あらゆる欲求に答えることで人間に傲慢さを与えてしまった結果と言える。
 ここで注意したいのは、科学的思考が自然を客観的対象物として捉らえることが環境問題を深刻化させたのではないということである。宗教も科学も人間が生み出した限りは、その思想の中には客観性は免れることができない。科学により実験、解明される対象となったのは、人間を取り囲む環境そして人間自身であることからわかるように宗教においての説かれていた領域と同じである。つまり、宗教と科学はアプローチの方法が異なっただけで、それらが捉えた対象は同じなのである。ただ、宗教は人間の「欲」ような人間の本性を考慮した道徳的規範のような理想をもつアプローチで、他との共生を壊す過大な欲求をとめていた。それは、自然を客観的対象として見ながらその営みの中に人間を見、自然と人間は根本でつながっていると捉え、自然観の中に人間観が含まれていた。しかし、科学は単に「欲」に答えたアプローチであった為、利己的になり、自然を人間の「利用の対象物」としてしまった。つまり、自然を人間の対立物とし、人間が自然観というものを独立させたのである。
 このような人間の思想を、三大宗教と様様な地域の「自然」にあたる語の概念(自然観・人間観)を辿ることでみていきたい。



4、自然観・人間観

 現在、「自然」と呼ばれる語の根源は、ギリシャ語のピュシス(physis)である。第一義は「誕生」「生成」「成長」 。第二義はその結果として、そのもののもつ「本姓」「性質」「性状」 。第参義は、自ずと成長し、形成された「秩序」や「力」を意味する 。第四に、地・水・空気・火やまた原子のような自然の構成要素もまたピュシスと呼ばれる(プラトン、デモクリトスなど)。このようなギリシャの「自然」は、人間をそのような生命的自然の一部にあり、タレスが「万物は神々に満ちている」と言っているように神までも内在化している。
 一神教における自然観をさぐる。
 イスラム語で、自然を表す語は「タビ―ア」。或る物の上に「印を押す」「捺印する」「刻印する」という意味をしめす 。ギリシャ語の「ピュシス」の訳語として使われるようになったが、「生じる」という意味を「ピュシス」のように自ら生ずるのではなく、神によって在らしめられていると捉えられ、「神による創造」と言う新しい問題が唯一神的思考から生まれた。この自然観は後のキリスト教ヨ−ロッパの自然観と連なっていく。しかし、自然の「操作」と言う考えはあっても、自然の「支配」を言う思想はされていなかった 。
 中世キリスト教においては、人間は神のために存在し、自然は人間の為に存在するというような神―人間―自然という階層的考えがなされるようになる。神は自然に内在することはなくなり、人間も自然の一部でなくなる。神、人間、自然が切り離されて独立無縁なものとなった。ここに、自然を客体化し、実験の対象とするかたちがうまれたといえる。この自然観が、現在われわれが「自然」という語に対して浮かべる概念の森羅万象として捉えるものである。
 一方、中国ではどうか。自然という語は老子の書物において「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る 」とある。「自然」という語は道家の「道」―世界と人生の根源的な心理― として引用され、「オノズカラシカル」=本来的にそうであること(そうであるもの)、あるいは人為が加えられない、あるがままの在り方」を意味し、究極の理想とされた。自然な在り方を理想としたのは、王の治世のあり方から人間のよき生き方、後の荘子になると内的な心の在り方までいたり、「自然に因る」ことと心の安静が関連付けられている。河合隼雄は「「オノズカラシカル」という考えは、天地万物も人間も同等に自生自化するという考えにつながり、物我の一体性すなわち万物と自己が根源的には一つであることを認める態度につながる」と述べている 。つまり、存在者として人間と自然界の万物は本来的に一体で平等である。これは、インドから伝来した仏教につながる。感覚・現象・意思・知恵全て永遠不滅の実体はなく、物質現象も同じであり実体がないから滅することもない 。全ての枠が取り外された「無」のなかに全てをおき、自執を絶つ思想に影響されている。「道」と呼ばれていたのが「天」や「気」、「礼」、「理」など言葉を変えて、中国はこの後も、人間論と自然論を一環したものと捉えることに貫徹している。
 インドにおいては、自然を物としては観察せず、神々としてとらえ人格化されている。
インドは仏教の発祥地であるが、現在のインドには多神教で有名である。人々は家の中に様様な神をまつり、お祈りをする。中には、キリスト教や仏教を混ぜ合わせた独自の宗教も存在する。ここでは人々に恩恵をもたらすものに畏敬の念を持ち、それら全てを神とみているように思われる。古代インドでは「神々」という語が「自然」にあたるものであった。彼らの自然観は、終わりなきサイクル思考がある。太陽が昇り、沈んでいくサイクルを、歳月を問わず生や死を繰り返している人間に当てはめ、自然界の出来事におも当てはめている。従って、自然界と人間界を同じ根源をもつものとしてとらえていたといえる。
 日本における自然観は、仏教の伝来とともにその思想に影響を受けている。万物に様様な神をみていた。最初、「自然」という用語は「オノズカラシカル」という意味で使われ、それは「自然(じねん)」と発音されていた。ヨーロッパのような森羅万象を意味する「自然(nature)」ではなかった。今日、われわれは「自然」という語を使うとき'自然性'の意味と'自然物'の意味の両義をもっている。森羅万象をさす「自然」は西欧の「nature」の語訳をした時から始まった。この自然観は現代人に浸透しており、最初に持っていたインドのような神々としての畏敬の念を含んだ観念が忘れ去られていることが今日、多く指摘されている。
 しかし現在、私たちの意識の中には、形容詞的に「自然な」というように使うとき、始めにあった'神的な人間の立ち入らない'というような意味を感じることができるのではないだろうか。



5、自然な流れ―人間・欲・宗教―

 それぞれの地域で「自然」がさす概念を簡単に述べた。時代を追って、思想の伝来により「自然」という語に持つ観念は変わってきているが、共通する自然への概念が根本にはあったことに気付かされる。森羅万象としての「自然」の意味が客観的対象として捉えらえるようになったことから始まったといわれている。しかし、人間がサルから進化し、種としてのヒトとなり複雑な思考能力を持つようになり、ヒトを取り巻く環境とともに自分自身の存在を自覚し、それらの存在のありかたを解釈し始めた頃から、客体化は始まっていたのではないか。それは自分の目で見、考える限り、客観的に見ることでしかできないから必然といえる。ただし、それは人間の感覚機能上の話で、科学的思考を生んだ中世キリスト教における捉え方が、森羅万象を人間と切り離され対象化したという意味でなく、根源で人間と全てが繋がっていたところに科学的思考の「自然」とのちがいがある。
 森羅万象としての「自然」をとらえることは、ヒトがもつ性質(感覚、思考、想像)がゆえのことなのである。他(自分と取り囲むもの)を知覚する→自分の存在を知る→考える(思考)→感情を認識する→コントロールしようとする(制御力)→安定を望む(思想誕生)。かなりおおざっぱだが、このような流れをヒトは時代を通して無意識におこなってきたなではないだろうか。ヒトは食や性的な欲求を、生きること種を残すことのような本能的目的以外に楽しむことができる。それは、欲の深さにも反映される。あらゆる事情は、そのものが持つ性質がゆえに起こる。そのようなヒトの一連の行動の流れをヒトは全ての観察できる範囲(知覚できる周りの現象)にも当てはめ、思考を深めていった。そして、人間には確認できないこと、わからない事を想像力から現象としてないものを仮定することで、解決しようとした。ここから哲学や宗教が最初にうまれ、今の科学に移っていった。「神」の概念が生まれたのは、人間の中でどこかに現象の世界以外の何かがあるという観念が眠っているのではないかと思う。イスラム教を生んだムハンマドが神のお告げをきいたり、キリスト教でのキリスト誕生のお告げは、真実でないとしてもそのような話がうまれる背景には人間の無意識の中に普遍的なものが存在するということではないか。その無意識は、ヒトが疑問に思うことに答えようとする無意識からの解決法のメッセージであるかもしれない。また、人間の複雑な思考・感情からの迷い・苦しみを神秘的な謎をのこしたフレキシブルなかたちを持ったものを提示することで、心の安定をたすける防衛機能なのかもしれない。



 
6、自然な流れ―人間・欲・科学―

 科学において、科学によって存在証明ができなことは排除され、信じることでしか存在証明はできないようなある意味宗教的考えは、今日人々の中で受け入れにくい。しかし、このような科学の時代で生きるなかで信仰心を持たない人でも、臨死体験をした人が「神」のようなものを見たという話はよくあるし、わたしたちも身に迫る危険を感じたとき、存在証明できないものに助けを求めてしまうことがある。最先端の科学で行く旅で「宗教」的体験をした宇宙飛行士が多くいるという ことからも、やはり科学の時代であっても、ヒトのなかには人間を超越する何か神的なものがのこっているのではないかと思わざるを得ない。この存在を認めなくなった人々は、心の安定を得られないで病んでいる。科学がやはり人間にとって宗教にある"教え"を必要としていることをあらわしているのではないか。以前は、宗教が果たしていた心の安定は、現在、という科学的なアプローチのカウンセリングが代わりをはたしているともいえる。
 宗教は、「欲」に代表される善悪両面に働く人間のもつ特徴を十分に考慮してできた理想的な生き方、考え方の提案だった。そこには、欲が満たされないのを敬虔さで止めようとした。一方、科学は知的欲求から発展し、人々の欲求に答えることで快適な生活、"幸せ"を得ようとした。科学も人間の為に生まれた科学という宗教なのである。しかし、人間の欲求は止まるところを知らない。欲求に答えるにつれ、得られないもののレベルは上がって行く。それに伴う欲求不満からの苦痛も激しくなる。現在、多くの人々がこの事実を感じている。この現象(終わりの無い欲のサイクル)は、宗教が生まれたときと同じように人間にとって無意識がよびかける自然な作業なのである。
 それでは、宗教的な思考を取り去り、神的存在で安定を図れなくなった心は、どうすればいいか。自分で調整するしかないのではないだろうか。この考えは自執を自分でたとうと責任を自己に課せる仏教のアプローチに近い。わたしは、この作業は、強い意思でカバーしなければできないと思う。神のような信秘性にすがるのではなく、強い思い込みというものかもしれないが自分自身を"信じる"ことで出来るのではないだろうか。
 人間は、人ゆえに悩みを持ち、無意識のうちに思考力で対処をしている。このような人間の感覚、思考力から宗教・科学が生まれた一連のサイクルは、ヒトがヒトであるがゆえの現象である。それは同じようにすべてのもの、現象に当てはめられるなではないか。そして、それを「自然の流れ」とみることができる。これが、今回わたしが感じた「自然」という語に対する概念です。







  〜 参考文献 〜
幸日出男 扇田幹夫 関岡一成『宗教の歴史』創元社―1990年
伊東俊太郎『一語の辞典 自然』三省堂―1999年
宇沢弘文 河合隼雄 藤沢令夫 渡辺彗『転換期における人間 2自然とは』岩波書店―1989年
『転換期における人間 3宗教とは』岩波書店―1990年
河合隼雄 『11宗教と科学』岩波書店―1994年
『コーラン』―世界の名著17―中央公論社―1997年
授業中配布プリント(般若心経)(アリストテレス『自然学』)(聖書一部) ノート


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