原始仏典・般若心経レジュメ


 ブッタは、五うん(色(物質的現象)・受・想・行・識(精神作用)が人々の執着心を引き起こし、苦を生む原因とした。そこでブッタが目指したところは、世俗的なものへの嫌悪・欲情から離れること・煩悩の消滅・心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり、そして涅槃に至ることであった。これを向かうためには、我や人生に対する執着から離れる必要があり、そのために四つの真実を説き、そのステップを踏むことを説いた。まず、我や人生すべてのものが苦であると知ること(苦諦)、苦の生起の原因を知ること(集諦)、苦を絶ち捨てること(滅諦)、そしてその苦の消滅に進むための道を考えること(道諦)である。
 ブッタは、苦の消滅を進む為の道「道諦」として「中道」―二つの極端に近づかないこと―を説いた。その極端とは、第一には様々の対象に向かって愛欲快楽を追い求めることと、第二には、自ら肉体的な疲労消耗を追い求めるということ。これらは、苦しく尊い道を求める者のすることではなく、真の目的にかなっていないために避けられるべきとした。
 また、汚れなく清浄な法を見る目をもたせ、理解を生じさせ、心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役立つ中道は、八つの道―八正道―から成り、正しい見解・正しい思考・正しいころば・正しい行為・正しい暮らしぶり・正しい努力・正しい心配り・正しい精神統一とされた。
 このように、苦を見つめることから涅槃への道は段階的に進められ、全てのステップは互いに次へのステップへと繋がっている。全ては、個々が集まってはじめて成り立つ縁起のように、ブッタが説く法は、一つだけ取って完成するということはなく、全ての段階を踏んだとき悟りに達する。物事はすべて縁起のでなりたっていることをブッタは教えのスタイルからも訴えていたのではないだろうか。 
 ブッタの教えは、時を経て形を変えながら人々に伝えられ、様々な宗派に分かれていった。その一派として中国・朝鮮・日本に伝わっていったのが大乗仏教である。その経典の中の一つとなっている般若心経は、原始仏典よりも空の概念を強く押し出し、悟りの境地は、その法(教え)さえも空(無)であると知ることであるとする。それは、縁起の概念に従ったもので、苦の作用を絶ちきれば、それを絶ちきろうとする悟りのステップまでなくなるというものである。
 執着心を引き起こすもの全て(五うん―色(物質的現象)・受・想・行・識(精神作用))から目を離し、すべてが縁起の存在であることを知ることが無常・無我につながる。しかし、このような涅槃の境地に辿りつこうとすること自体も執着心を生み、苦をもたらすことと般若心経では捉えられ、法(教え)は結果的に全てが涅槃に辿りつくための手段であり、「方便」として機能するものでった。最終的に法の存在をも無とするところが原始仏教がもっていなかった認識論的思考から生まれた相違点である。
 
 


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