学術的自己紹介

『万人にとって正しい判断とは存在するのか?』


1、 思考する動物
2、 価値観・判断基準の多様性
3、 普遍的な体験・思考
4、 将来へ繋がる判断を導くもの

1、 はじめに

 人間の存在を「考える葦」注1 とパスカルは表現した。思考することは、人間の特性である。なぜ人間は考えるのか、どのような刺激がその思考に影響を及ぼすのか、思考の過程にはどのような作用があるのか。そこからどんなものを生み出すのか、私は興味がある。そして、人類が共有する思想は存在するのか、また存在するとすればそれはどのようなものか考えていきたい。
 他の動物のように、どのようにすれば食料を獲得できるか、どこが安全かというような基本的な生命維持のための思考以外に、どうして考えるのか、悩むのか。そこには、よりよいものを望む人間の意思があると私は考える。では、その「よい」という判断は、何によって決まるのだろうか。何が正しく、何が間違いなのか。何が善くて、何が悪いのか。それには、軸となる何を大事とするのかという価値観が作用する。対立する概念は、しばしば一方が、他方を引き立たせる為の道具となる。その作用を用いて、一つの論理を突き進める為に、他の論理を否定することによって持論を引きたてる方法が様々な文献でみることができる。相対概念を対立させ、持論を引き立たせる行為は、自分が優先するものがあり、それを証明したいという意思から起こる。
 その両方を決める軸となる価値観は、時代・環境・文化によって様々である。またその価値観は、社会的なものから個人的なものまで様々な作用が入り混じり合っている。そこから全ての事象がプラス・マイナスの両面を持っているとすれば、何を軸に物事を判断すればいいのか。真実と何が真実で何がそうでないのかを決定する軸を支えるものは、いったい何によるのであろうか。同じ出来事・行為・判断を、ある時、ある場所では賞賛され、批判を浴びることが繰り返されるなかで、普遍的な価値観、判断基準はあるのだろうか。また、判断・意思決定を強化するもの、揺るがすものは何なのか。またどのようなものが、思考から、人間の行動に影響を及ぼしているのだろうか。私はこのようなこのような多くの疑問から、人間の思考から行動までの流れとその間に伴う作用を考察していきながら、世界の人々が共に長く暮らしていくためには、どのようなことが望まれるのか考えていきたい。


2、 価値観・判断基準の多様性

 人々の価値基準は、時代・環境・文化などによって異なる。更に、そうした時代、文化に生きる個人単位の価値基準が交じり合い、多種多様な価値基準がうまれる。しかし、人間が社会的な動物であるかぎり、個人の思考には社会という全体的な傾向・現象が影響し、その多様性はある程度制限され、集団内で価値観を共有することになる。そして、個々があつまってできいた集団である社会がもつ傾向は、逆にそれは独立して、個人個人の行動に影響を及ぼすようになる注2 。それが、社会的規範、法律、習慣、常識といわれるものである。それによって、秩序を守る役目を果たしている。社会的に「正しい」・「間違い」と判断されることは、集団の中で共に生きる大多数の人々が支持するものに基づくものである注3 。小さな単位では、個人の思考を育てるのに一番身近な家族の単位がある。個人の思考、判断は、これらの自分が身を置く集団の影響を受け、更に個人的な体験が加わり個人の考え方・価値観となる。
 しかし、この判断基準が崩れるときがある。それは、状況の変化である。そのとき人はどのような思考し、行動するであろうか。社会的な変化である場合、平和な状態から戦争状態に入ったとき、自分の命を守るためには人を殺さなくてはならない、他人の家を焼かなくてはいけないとする。このような行為は秩序が保たれている状態であれば、倫理的にも法律の立場からも誤った行為である。一つの可能性として、最初は戸惑ったとしても、それが常になると以前の判断基準を捨ててしまうことが挙げられる。生きるためには仕方なかったと、その当時ではそのような判断が普通になっていたという話をよく聞く。しかし他方では、以前の判断を捨てきれなくて自分の死の方を選んだ人もいる。何がその二つの判断を分けたのだろう。そして、どちらが正しく何が誤っているのか。私は、そのようなどちらか一方を選ぶ判断は、何を大事とするか、優先するかに掛かっていると思う。
 物事は、常識や決まりごとを除いてしまえば、いい方にも悪い方にも捉えることができる。そこから何を学び、生かしていけるかという視点から見ると、行為自体だけの評価とは異なる結果となる。何を大事とし、優先するかも、判断する者の価値観によっている。価値観は、判断をする際の軸となり、社会的傾向と個人的性質が相関関係にあり、個人の価値観を作り上げている。時代と共に、全体的な人々の価値観は変化し、それと共に人々の判断基準も変化する。しかし、どの時代、地域にも通じる普遍的な判断基準は存在しないのだろうか。普遍的な基準を定めるならば、その前提となる普遍的な価値観が必要となる。今日、先進国が推し進めるグロ−バル化に伴うグローバル・スタンダードという発想はこのような普遍的な基準を人工的に決めようとするものである。しかし、そのような世界共通の基準を決めることは効率性を重視した場合、役に立つかもしてないが、長い歴史を以って育ててきた文化的価値観を重視した場合、賢明な判断といえるだろうか。何を優先するのか、その決断が先々のわたしたちの将来につながる重大な決断となる。では、私たちそして地球上の全てが共存し、平和な状態を存続させていくことを重視するならば、どんな判断ができるだろう。人間は、インプットされたとおりにしか動かないコンピューターではない。同じ事が起こり、同じものを見ても全て同じ認識、同じ判断、反応、行動をすることはない。ある病気が発生しても、多様な遺伝子の構造を持った人間は、全滅することはない。そのような多様性は、生物学的にも種の保存に役立っている 。文化的なものに当てはめても、その多様性の利点を知ることができる。それでは、一つの基準を設定し、それに固執することは、人間の様々な価値観が生み出した文化を破滅に追いやる事になるにもなりかねない。突然の思いがけない出来事、状況の変化に対応する認識の変化は、判断基準を変化させる。このような状況に対する判断の変化が、適応性という生き残るための機能の一種であるとすれば、必ずしも同じ基準をもつ必要はないと言える。 
 人は物事を、様々に捉えることができる。だから、同じ人間であっても時代、環境によって多様な価値観がうまれる。自分を安定した状態に保とうと状況にあった考え方をしようとするときは、発想の転換と言う機能が働く。それは、既成の判断では解決できなかったことを可能にしたり、落ち込んだ心に明るい光りを与えてくれる。しかし、物事がプラス・マイナスの両面を持つように、必ずしもその時々で革命的で、よいとされることばかりに会わせた価値観・判断基準の変化はいい面ばかりではない。短期的に善くても、長期的に悪い判断は結果的に善いとはいえない。
 そこで、判断基準はその時のニーズや価値観に依存し、その価値観は長期的な視野を必要とすることが重要となる。その長期的にいい判断とはどのようになされるのであろうか。


3、普遍的な体験・思考

 多様な価値観のあるところに普遍的な基準を押しつけ、多様性を失う危険は上記に書いたとおりである。しかし、表面的には多様性があるように見えるが、本質的には同じような発想、思考から生まれてきたものはないだろうか。
 どの時代、地域においても人間が体験し、考えきた普遍的な普遍的真実がある。それは、人は生まれ、人を愛し、死ぬというサイクルである。そこから生まれる感情は、人との関係性において育つものである。特に、肉親や配偶者の死が与えるショックは人々の生き方に影響を与える。生死や愛が、人間が生み出す芸術作品に必ずでてくる永遠のテーマの一つである。そのような普遍的で人々が共有する事実は、人々に同じような気持ちを抱かせる。なぜこのようなサイクルが存在するのか、どうすれば死という悲しい事実を受け入れることができるのか。このような思いから生まれたのが、宗教心だったのではないだろうか。普遍的なこと、それは人間の特性である思考するということである。そして、それに影響を与える精神的な感情である。では、世界の人々が共有する感情である「悲しみ」「愛」を大事することは、より普遍的で、正しい判断になるのではないだろうか。


4、将来へ繋がる判断を導くもの

 意思決定には、まず自己の欲求が存在する。それに外からの規制が加わりそれを正しいか、間違っているか、行動に移すことが許されるかなのの判断がなされる。価値観の変化の不安定さは、最初に述べた。更には現代では、様々な価値判断の操作が行なわれている。欲のシステムを操る消費社会の誘惑などがそうである。そのような外からの誘惑、それによって引き起こされる欲求をどのようにコントロールするか。このような世の中での判断で大事なのは、先見の明、一筋の道、理想とする規範を持つことであると思う。いつの時代・地域にも共通して人が思い悩み、より善い考え、行動はどのようなものが唱えてきた。こう言った行為は、普遍的であり、そしてその対象も悩みも教えも同様に人間がもつ思考するという特質から生まれたものである。そのような人々の規範であり、理想的な人間の生き方を学び、軸とする判断は、先にも普遍的により正しい判断をすることに繋がるのではないだろうか。しかし、昔からある教えが説く細かいとこを実践していくというのではなく、そこに含まれる本質を学び取る。それには、多くの実社会での自己の体験も必要だと思う。そして、その理想を理想として持ちつづけるのではなく、生きていく中で、様々なことを体験し、行動することにより、理想を現実に当てはめていく中で教えが示す本質に従った判断ができるのでは中と思う。より理想の本質に近い資質を現実世界に合わせ生かしていく、その際、理想は形をかえるかもしれないが、それは体験からの知恵が現実との折り合いを学習するからである。その折り合いの知恵がまた、普遍化できなかった様々な事象からも普遍的な思想を汲み取ることを可能にする。私たちは、春学期に老子を文献としてあつかった。その思想は、深く何千年の時をへて、現代まで残っているものである。時代も違えば、時勢も違うので、言っていることをそのまま受け取り、実行に移すことは、難しい。しかし、その思想から汲み取れることは、いつの時代でも同じであると思う。だから、こうして長い年月を経ても残っている。私たちは、人類の祖先が残した思想から今何ができるか、学んでいくことが大切となるのではないだろうか。温故知新の精神で人間の普遍的な思考から生まれた思想を学ぶことは、よりよい将来を導くよりよい判断の示唆となると思う。
私は、これから様々な文献を扱う中でそこから得る知識と、自分の体験から感じ、学んだことを合わせながら、長い歴史の中で人々がどのようなことに悩み、考え、どのような判断をし、どのように生きてきたか、そこから現代の私たちがどのように生かしていくことができるのか考えていきたい。


注1 広辞苑より 考える葦:バスカルが「パンセ」の中で人間の存在を捉えられた語。人間は葦にたとえられるような、自然で最も弱いものであるが、考えるという特性をもっているとして、思考の偉大さを説いたもの。 [本文]

注2  ジンメル『社会分化論』p、393上 参照[本文]

注3  海保博之 『人はなぜ誤るのか ヒューマン・エラーの光りと影』p、26 参照[本文]


〜 参考文献 〜
新村出編 『広辞苑‐第四版‐』岩波書店
尾高邦雄編集 ジンメル・デュルケーム(ジンメル『社会的分化論』)中央公論社―1980年初版
海保博之 『人はなぜ誤るのか ヒューマン・エラーの光りと影』福村出版株式会社―1999年初版
湯浅泰雄 『宗教経験と深層心理』名著刊行会―1988年
小橋泰章 『決定を支援する』東京大学出版会―1988年


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