■ はじめに

「人間とは何なのであろう?」

これが私の学術的問いである。人間とは動物であり、生態系の頂点に立っており、思考を持ち、悩み、時には同種をも死にいたらしめる。私の人間についての謎は日を追って深まるばかりである。この「人間」という存在を様々な視点から考察し、その行動を意味づけしてきたのが学問である。この人間の人間による人間の為の知の歴史は、我々に大きな力と尊厳、時には自己矛盾、悩みを与えてくれる。我々はこの人間の行動に一喜一憂し、それを人生の喜びとしている。そのような複雑かつ理解困難な存在について、少しでもその本質に近づきたい、人間を説明したいというのが私の学術的願望である。確かにそれが理解できるという望みは尊大かつ無謀であるかもしれない(一人の人間の一生涯ごときで理解できるものではないのだ)、しかしその過程の中で、現代において我々の諸行動を少しでも理解でき、この世界へ少しであろうと還元できたならば、この問いは意味を持つであろうと考えている。また、この問いが現代社会において山積みとされる課題に対して、新たなアプローチを生み出し、それに取り組んでいく一つの答えとなればと思っている。

 まず、「人間を説明する上で、彼らがサルの子孫であることを忘れてはいけない。」これはデズモンド・モリスの言葉であるが、リチャード・ダーウィン、デズモンド・モリス、リチャード・ドーキンス、様々な新化論者、動物学者、遺伝子学者は、我々人間をサルの形質(さらに言えば、生物が代々受け継いできた遺伝子)を引きずっており、その行動はある程度過去の形質に規定されていると主張している。このような動物学的生物学的視点をおろそかにするようでは、どのような他のすばらしい主張も砂上の楼閣となってしまうであろう。彼らの動物学的視点からのアプローチは大変すばらしいものであった。しかし、彼らの主張も人間の一側面を説明してくれるものにすぎないのである。数年前人間はその環境の変化から、地上におり、生き延びる為に(結果として)様々な能力を幸運にも得た。ここから、煌びやかな人類繁栄の時代が到来する。その様々な能力の中で一番魅力的だったものは、探索欲求である。これにより人間は好奇心を得、自己の種としての保存能力以上のものを得たのである。この能力は社会というものを人間に与え、学問、宗教、文化、言語をも作りだした。人間は“考えるサル“になったのである。

 現代社会において、この“考えるサル“はその属する社会的規範に則って行動するように抑制されており、ある程度この試みは成功しているように見える。しかし、一方このサルは様々な問題をも抱えている。彼らは自己のやっていることをある程度コントロールして、幸せそうに生きてはいるが、はたしてそうであろうか?彼らは、その認識を彼らの世界だけの言葉で語り、彼らの世界の中で、幸せを掴み取ろうと必死になっている。この欲望は世界を覆い尽くし、世界中いたるところででその炎を絶やすことはない。その彼らのサルから受け継いだ行動形式と、認識能力は一つの”欲動“を生み出し、それによって様々なある意味人間らしい、人間ゆえの問題を生起させているのである。私の興味は、ここで”認識”というものへ移るのである。ブーバーのいう我と汝、我とそれという関係も個人の認識の違いによって生起され、それぞれの世界観、価値が創造されている。人間を説明する上で、動物学的なアプローチと認識の生成システムを理解すれば、それを人間の緒行動に当てはめ説明できるのではないだろうか?具体的には、進化心理学、サル学、フロイト、カント、社会学の一派を使って学術的なアプローチを考察してゆきたいと考えている。それが現時点での、私の学術的方向性である。上記の課題をやっていく上で、やはりそれを現実世界の中の問題にあてはめ考察しゆきたいと思っているのである。


■ 第一章

基本的人権から派生したイデオロギー



 現代社会において、万人が共通理念として共有している価値観の中心に「基本的人権の尊重」がある。この概念は岩波国語辞典によれば「人間が当然持つべき、一番土台となる権利。人種・身分などによって差別されないこと、思想・新教の自由、集会・結社・表現の自由など」と記されている。ここに記されているように、個人はこの権利を生まれながらに有しており、この基本的なプロトコル(共通規範)の中で我々の社会は成立している。
 この基本的人権によって、我々は多大のものを得、またその一方で失ったものもあるのではないだろうか。例えば、それは共同体であり(ここでの共同体を定義するには私には知識がなく曖昧なものになってしまうが)、“本質的な自由“である。

 我々は、よく「私がどうしようと、あなたの関するところではない。法や一般的道徳にふれなければ、自分のやりたいことをやれば良い。」と言う。また北アメリカ社会における共通意識の中に、個人の目的のうちでもっとも影響力のある考えかたは「個人の自己実現こそが個人にとって最上の幸せである」といった考えである。確かにこの“自己実現”という考えかたは、昨今の日本社会でも頻繁に使われるようになり、日本国民に肯定的に受け入れられ定着しつつある。この“自己実現”の概念も「基本的人権の尊重」という大枠がなければ生み出されなかったものであり、個人が主張し渇望する“個人的自由”の権利の総量も増大傾向にあるといえよう。

 この“個人的自由”を規制するものとして、法と道徳が存在している。民主主義国家において法は国々によってその差異はあるが、その共通項として、他者の自由を抑制する事を禁止する”という性質を有している。当たり前の事だが「基本的人権」という概念の中には、“個人の自由を尊重することは、他者の自由を尊重することである。”という考えが素直に導きだされる。これにより、表向きには人種差別、宗教差別、女性差別、個人の法にかなった自由意志を抑圧するもの等は社会的悪であるとした共通認識が守られているのである。「基本的人権の尊重」という概念は、一方ではこれまでの近代的なヒエラルキーを打ち崩し、個人がより個人の幸せ(個人の個体生存、個人意志を肯定できる生きかた)を追求できる社会の実現に向けて多大な恩恵を与えたのである。ここで、私は“個人的自由”とは“個人の個体生存願望を肯定する”概念とする。これによって、個人はよりフロイトの言うところの“欲動”を肯定でき、自己中心的な幸せの追求が可能になったのである。
 この個人の個体生存願望を肯定する“個人的自由”は人間のものへの執着心、止めど無い権利の渇望、個人的快楽の追求を一段と加速させたのである。その絶え間ない人間努力の結果生まれたのが、大量消費社会である。(この箇所については、ボードリアルの思想を使って掘り下げて行きたい。


■ 第二章

大量消費社会と共同体の解体から生ずる個人の孤独化



“個人的自由”の概念の肯定、社会における浸透度が高まるにつれて、大量消費社会が発生したわけであるが、ここで“個人の孤独化”も加速されたのである。「基本的人権の尊重」の裏には、個人の孤独化、共同体(ここでの共同体も明確には定義できないが・・)の解体が起こったのである。先にあげたように現代には「あなたがどのような行動をしようとそれが法や道徳を逸脱していなければ、尊重しなければいけない、それは個人の自由である」といった共通認識があるように思う。これによっては“自由”という概念が社会、共同体から個人へ移れば移るほど、ますます個人はその権利を主張し、自己の欲動を肯定する心理からその行動を決定するのである。ここで、個人行動の決定権は自己を中心にまわり、個人は社会から切り離されるのである。いわゆるこれが“個人化”である。“個人的自由”の主張は個人をその個人が属していた共同体との繋がりを希薄にし、共同体の解体を加速させたのではないだろうか。

 経済的な視点からこれを考えると、経済は人間の生活にとって必要な労働を分業化することで大きくなってきたように思える。例えば、私は今日の昼食を自分で作らずに、コンビニでお金を払い買うとしよう。ここで私はその食事の材料を栽培し、収穫し、料理する事無しにいともたやすく500円程度で昼食を得れるのである。つまり、私が本来生命維持のために必要な労働であるこの過程を、社会的分業によって生産されたものにお金を払うことで、効率良く・安く・安易に手にいれることができるのである。そして、この分業化は多種のサービスにまで及んでいる。この視点で考えると経済の量的増大とは、個人がいかに自己の必要とするサービス(生命維持や幸せを得るための労働)を外部に依託注文し、自己の専門的な仕事に効率良く合理的に従事するかで決まってくる。経済規模が小さい状態では、個人は生きて行くために他人と協力しあい労働する必要があった。他人と顔をつき合わせて、収穫や地域の産業に従事しなければならなかったのである。昔の社会(これもはっきりと規定できないが)では、個人は集団に属し集団における労働に従事しなければ生きてゆけなかったのである。しかし、現在社会では、そのような事をしなくとも生きて行ける環境が整っている。経済の発展に伴って、人間はより個人で生きて行ける環境を作りだし、それによって社会から“孤立化”していったのである。



■ 第三章

現代が抱える問題と快楽のシステムの関連性

ここまで、私は「基本的人権の尊重」という共通意識から、“個人的自由”という概念が発生し、それによって個人が自己の欲動を肯定しまたそれを追及する社会が形成された。それによって、大量消費社会が加速され、昔のような共同体が解体され、社会において個人が孤独化の傾向にあると述べてきた。そして、それは現代の社会における様々な問題の根源であるかのように私には思えるのである。
 一般的に言われているように大量消費社会は環境問題を引き起こし、消費に依存しなければ生きて行けないシステムを作りだした。我々は、その社会の中にあって、孤立化してゆき“心の豊さ”を渇望し、その「癒されたい」と望む心は新たな消費を生み出している。消費を生み出せば、生み出すほど環境には負荷がかかりますます環境問題が悪化する。いわば、止めようのない悪循環である。

 ここで、この何故このような悪循環が理性をもってしても止められないのかを考えてみる。例えば、私は愛煙家である。私自身もタバコをやめたいと思っており、理性では体に悪いし、社会的な面からもやめたほうがいいと頭では理解している。しかし、現在もやめられない。タバコをやめられない理由に生物学的には体が依存しているという説もあり有力であるが、それだけでは無いように思う。タバコを吸うことは私にとって一種の“癒し”であり“快楽”である。悪いと思っていても、私はタバコを吸う事によって一種の喜びを感じており、私の体と心はそれによって満足感を得ているのである。つまり、人間は理性でだめだと思っていてもそれに快楽が伴っていれば、その快楽を従属させる行動を優先させやすいということである。これは、様々な消費活動でも共通点があるのではないだろうか。

 ビクター・S・ジョンストンによれば「人間の快楽や不快と感じる感情は、生存の上で生き残っていく為の重要な機能である。」としている。また、「人間は一般的な快楽や不快感を形成できるように神経組織を進化させてきた。主観的な評価感情を進化させてきた生き物のみが次代に遺伝子を伝えることができたのである。」と主張している。例えば、糖分は食事から得るエネルギーの重要な供給源であり、単純においしく感じるし甘い。しかし、甘さは糖分自体の性質ではないのである。いわば、それは進化で生じた脳の創発的性質であり、脳が勝手に砂糖を甘く感じているのだ。その砂糖を甘く感じる脳の働きは、生存上でそれを得ることが有利(脳は糖分のみをそのエネルギーとする)であったからこそ、「甘く」かんじるようになったのである。つまり、人間が持っている、快、不快と感じる心の働きは、人間が生き延びて子孫を作って行くうえで合理的だったからである。そのような合理的な感覚を人間は理性によってもなかなか押さえることができないのである。
 その考えを導入すると、個人レベルでの消費や行動はある程度説明できるのではないだろうか。また、アメリカの京都議定書批准問題などにもこれで説明できないだろうか?

これからの展望


? 環境問題は個人の消費の増大で生まれた。これを規制できるものは、法と道徳規範ではないだろうか?1度与えられた権利を棄却するのは人間が“快”と感じる心のシステムに反するのでは?人間の感情が“心地よい”と感じる共同体作りにより、地域共同体の再形成。道徳規範(環境破壊を抑止するものとしての)の形成につながるか?
? 携帯産業は癒し産業である。情報としてつかっているのではない、孤独化の中からの癒しデバイスとして使っている。
? 人間の本質的欲求にアピールする産業が伸びるのではないだろうか?これからの、経済体制の予想。



参考文献
デズモンド・モリス 「裸のサル」  角川文庫
ジャン・ボードリヤール   「消費社会の神話と構造」 紀伊国屋書店
ビクター・S・ジョンストン 「人は何故感じるのか?」 日経BP社
イマヌエル・カント     「純粋理性批判」     岩波文庫
西尾 実          「岩波国語辞典 代五版」 岩波書店