■ はじめに

まず、人間とは何なのか?という思いに駆られて、個人研究を人間の活動に関する事にしまた、人間の行動の原点となっている好奇心について研究しました。

人間の生成についていくつかの見解があるが、その主流を成すもののひとつとしてチャールズ・ダーウィンが1859年に発表した『種の起源』がある。それによると、「進化による変化が変化していく環境に動物が適応する必要によって推し進められている」つまり、地球の気候の変化により固体の生殖に影響が与えられ、またその固体が次の世代にその特性を伝えるのである。また、この気候による自然淘汰が生物に及ぼす生物レベルでの変化(変異)は、一万年に一度の割合で起こるといわれている。サルと人間が霊長類だったころから500万年しか時間がたっていないことを考えると、人間とサル(チンパンジー)の間には共通点が多々あることが信じられる。また、動物学者のデズモンド・モリスによると「人間は進化の過程から見ると猿と共通の祖先を持っており、人間は原始的かつ本能的な形質をいまだ引きずっている」またモリスは「自然淘汰という進化論的見地から見れば北アメリカ社会が最も進化の線上にある」としている。つまり我々はいまだ古い形質を引きずっておりまた、それが最も繁栄していると思われる北アメリカ社会のなかに見うけられる」といっている。このモリスの考えを軸としてこの研究を進めていく。


■ 第一章

太古からさかのぼる

我々の祖先は原始的な食虫類の系統から生じた。彼らは小さな目立たない生き物で、恐竜の時代彼らは安全な森林の中にひっそりと住んでいた。そして、5000万年前恐竜の時代が終わると、新しい住み場へのり出していった。そこで彼らは多くの新しい変った形に分化していった。あるものは、植物食となりまたあるものは肉食となった。我々の祖先はこの時期まだ森の中で生活していたが、ここでも進化は起こり彼らの食物の幅を広げ果実、殻果、つぼみ、葉を消化できる消化器を持つにいたった。そして視覚は改善され、目が顔の全面に並び、手は食物をつかめるようになっていった。それに伴いゆっくりと脳は大型化してゆき彼らはしだいに樹上生活に適したものとなっていった。

3500〜2500万年前の何処かでこれらの前猿類は、猿への進化を始めていた。体は大型化し、「腕歩行」(枝にぶら下がり手を交互に動かして進む)に転向した。そして、ますます広く色々なものを食べれるようになった。この数百万年の進化により彼らはもはや完全に森林生活に専門化してしまっていた。彼らはそこに留まり果実をむさぼっていさえすれば良かったのだ。

しかし、気候の急激な変化がおこり(理由はわからないが)気候が彼らにとって不向きとなった。1500万年前頃までに彼らの住む森は急激に減少し我々の祖先は、残された森に残るのかまた地上に降りるのかという二者択一を迫られた。残ったものは、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンの祖先となり地上に降りた種は人間の祖先となった。しかし、地上にはすでにその生活に特殊化した肉植獣や、草食獣がおり樹上生活に特殊化した我々の祖先が生存するにはかなり困難な環境であった。

このことが我々の祖先に100万年前までに急激な変化をもたらした。彼らはすでに大きくて質の良い脳を持っており、よい目とうまく物をつかめる手も持っていた。そしてある程度の社会組織も有していた。これらの能力を使い彼らは、日々の糧を探すために常に積極的に徘徊し探索する性質を身につけた。樹上生活ではただ目の前ある果実に手を伸ばせば生活して行けたが、地上生では常に食物を探索しなければ生存できなかったのである。

厳しい自然淘汰の中で彼らはますます直立し、うまく走れるようになった。また、手は移動の義務から解放され、強くて能率良い武器のつかみ手となり、脳はますます複雑となり、明快で急速な意思決定が可能となった。そして、これらはいっせいに起こったのである。つまりある性質についでまた別の性質に小さな進歩が起こり、それらが次々に他の性質の進歩をかりたてたのである。

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道具の使用から製作までが次のステップであった。この発展と並行して社会協力がおこり社会組織の仕方も変化した。そして彼らは狩猟集団となり縄張りを持つ猿となった。ここから彼らの性行動、社会行動のパターンのすべてが影響を受け始め、この変化は、彼らの脳がその行動に見合うだけ大きく複雑に変化したことにあるのである。ここからは、すでに広く知られているように火と食物の蓄えや人工的なものの発達などが起こり、文化と言えるようなものがうまれてくる。


■ 第二章

一章では我々の祖先が猿の祖先から人間の祖先に分かれた経緯について述べたわけだが、ここで話を好奇心にもどす。モリスは「我々人間は過去の形質をかなりの割合で引きずっている」と主張しているわけだが、このことから好奇心の原型は人間が樹上生活をあきらめ地上生活に変ったとき生じた探索の衝動にあるのではないのかと思う。

特殊化と便宜主義

モリスによるとどの哺乳類も探索衝動を持っているが、その度合いはその動物が進化のなかでどれくらい特殊化してきたかによるとしている。例えば、特殊化している動物にアリクイ、コアラなどがあげられるが彼らは進化の過程の中である特定の生存手段を獲得している。アリクイにアリが存在しコアラにユーカリの葉がある限り、彼らは生きてゆくことが容易である。さらにいうと、彼らは環境の劇的ば変化がおこら無い限り、食物について何の心配も探索も要らないわけである。一方特殊化していない便宜主義者(サル類、ヒトニザル)はコアラやアリクイのように食物採取において特殊化していないがため、常に探索しなければならない。今日の糧を得るためにはあらゆる可能性をためし、幸運なチャンスを見張っていなければならないのである。サル類、ヒトニザル類はその便宜主義的な進化のためにこの探索衝動が強いといえるだろう。

現代における探索衝動

また、モリスはこの探索衝動が現代の人間社会にも根強く残っていると主張している。それは、仕事である。古代の探索衝動は日々の糧や命の生存を維持するする為にあったのだから、現代ではそれは仕事に置き換えることが出来る。

もしその探索衝動が個人の仕事の中で活かされまた満たされているのならその人は自分の仕事に満足しているといえよう。しかし、単純な仕事やくり返しの多い仕事についている人はこの自然の欲求(探索の衝動)をうまくみたすことができない。そこで他にこの欲求を満たしてくれる代替物が必要になる。例えばギャンブル、何かの収集、旅行、テレビその他の娯楽である。

しかし、これだけでは好奇心の説明にはなっていない。何故なら人間は「遊びのための遊び」をするからである。たしかに探索の衝動は好奇心のプロトタイプ的要素を持ってはいるがすべてを説明するものではない。よく学者などに「何故あなたはそのことを知りたいと思うのですか?」と聞くと「ただ知る事が楽しいから」といったような答えが返ってくる。よって、好奇心は知識欲とも置き換えられるのではないであろうか。また、サルの子供と人間の子供を比較してみると、子供のうちはサルの子供も人間も、ある時期までは同じように好奇心旺盛である。これは新規なものに魅駆れるという傾向で、ネオフィリア(新しいものを愛すること)と定義されている。しかし、サルの子供は彼らが大人になっていくにつれ衰えてゆく傾向にある。一方我々は、成人になっても幼年期の好奇心はますます強まる。うまく生活していけるだけでは決して満足しないのである。それは自分の周りの人々を見てみると明らかであるし、また、我々の問いは必ず次の疑問を生み出す。ここに人間の好奇心の最大の秘密がある。


■ 第三章

さて、ここにきて「何故人間は、人間特有の好奇心を持っているのだろう?」と最初の疑問がまた沸いてきた。原点となっているものは「探索の衝動」らしいということは薄々分かるのだが、人間しかない知識欲、知的好奇心の説明にはならない。そこでかなり悩んでこのレポートの題材を変えようかと思ったのだが、先生のくれたヒントの中に「人間はすべての行動を意味付けしたがる」とあったのを思い出し、「好奇心を持つ」ということをレトリックを使い言い換えてみた。まず、好奇心とは「どうしてそのようになるのか不思議に思うこと」であるといえる。人間の好奇心はこのように必ず「何故?why?」と思う性質がある。ここから「何故?」と思うということを言い換えると、「自分が周りの世界から受け取る情報に対して素直に受け入れるのではなく、疑っている」ということがいえる。人間は、自分の周りのものに対してそれを受け入れずに必ず疑う。犬や猫は、今彼らがが生きている世の中に疑問を感じたりはしないであろうし、虫などは全くといっていいほどこの様な思考をしているようには思えない。まとめると、

? 人間の好奇心は、[何故?]と疑う人間の思考から生まれている。

といえるのではないであろうか。

思考のメカニズム

思考を心のメカニズムと置き換える事を可能だとすると、人間の好奇心は「何故?」と疑う人間の心のメカニズムから生まれているといえる。それでは人間の心のメカニズムとはどういうものなのか。

人間の思考は、他人が情報伝達を試みているとみなすように作られている。我々は他人の身振り、合図、言葉をそのままの意味で解釈することはあまり多くなく、その裏にあると思われるものに置き換えて解釈する傾向にある。つまり、我々はすべての他人がはっきり目的を意識して行動しているものとして思い込んで、かなりの時間をかけてその思考をたどり、他人の意図を見極めようとするのである。では動物にもこの様な複雑な心的状態があるのか?

心の理論

心理学者による近年の研究のうちで「心の理論」(TOM)と呼ばれるものがあるが、これがこの問題の回答となりそうである。「心の理論」とは、「他人の考えを理解しうること、他人が信念、願望、恐れ、希望を持っているのを認めることができるということ、他人が本当にこれらの感情を心的状態として経験しているのだと信じることが出来る」ということである。心理学者ロビン・ダンバーによると「我々は一種の自然の階層を持つことが出来る。それは、あなたは心的状態を持つ(何かを信じる)ことが出来る、私はあなたの心的状態に関する心的状態を持つ(何かを信じているといえる)ことが出来といったことである。」

さらに、「もしあなたの心的状態が私の心的状態に関して考えていることであるなら、〈私は、私が何かがこうであると思っているとあなたが思っていると思う〉ということが出来る。」これらは、「志向意識水準」と呼ばれている。下に示す表は「志向意識水準」の各レベルである。

志向意識水準表

零次心的状態の意識無し (コンピューター、虫)
一次われ思う、故にわれあり(自己の感情がわかる) (イヌ、ネコ)←?(幼児)
二次私は、あなたが何かを思っていると思う (サル)
三次私は、私が何かを思っているとあなたが思っていると思う (4歳児)
四次私は、あなたが何かを思っていると私が思っているとあなたが思っていると思う 人間(4歳以上)

人間は何とか六次までの志向意識水準までは追えるが、それ以上となると書きとめて目で確認する必要がある。

動物にはあるのか

では動物もこの様な心の理論を持っているのだろうか。1950年代にヘイズ夫妻が自分の子供とチンパンジーの子供をいっしょに育て、この同行を観察した記録がある。このチンパンジー(ビッキ)は、ある時後ろに一本のひもをたらして歩いているのが観察された。ちょっと見では、全く他愛の無い行為のようであったが、床の段差があるところにひもの端が達すると、彼女は立ち止まって、仰天したような様子を見せた。その行動は子供がおもちゃの車にひもをくくりつけて引っ張っているとき、それが引っかかってうがか無くなった場合にみっせるであろうものだった。ビッキは階段の下まで戻りあたかも障害物から解放するようにひもを段差のところから持ち上げた。このような「ごっこ遊び」はチンパンジーにも二次以上の心の志向水準があることを示している。

また、人間の子供は大体三歳になるくらいまで嘘を付けない。つまり、自分意外の人間が自分と違った考え、心的状態を持っていることに気がつかないのである。彼らは概して残酷に振舞ったり、自己中心的かつ王様のような振る舞いをすることがあるが、これは彼らの心的状態が一次の志向意識水準しかもっていないこと表している。世界は自分と同じ考えであると思っており、他人が自分と違う考えを持っていることに気づいていないのである。つまり我々人間は生来的に「心の理論」を持っていないことになる。子供は(0〜3歳)は経験を重ねることによって「心の理論」を身につけていくのである。

文学の創造

つぎに、「心の理論」は我々に第三者的的な見地から他の世界を見るという、能力を与えてくれている。この出発点はロビン・ダンバーによると「自分自身の思考内容を省みる力であるとしている。」これから、自分自身の感情を理解することは他人の感情(心的状態)を理解する大きな助けになる。また、「他人の中に見出すものを理解できなければ、経験に対する彼らの心的な反応を正しく認識出来るほどその思考を探ることはできないであろう。」「本当の飛躍的な進歩は、完全に発達した三次の心の理論によって、実在しない誰かが特定の状況に対してどう反応すか、我々が創造できるようになった時点である。言い換えれば、我々は文学の創造をはじめることができる。」と記している。文学を書くということは、存在しない想像の世界の世界を生み出すことである。我々の心のシステムが他の動物に比べて劇的に違っているのは、この三次以上の心の理論を持てるということである。このことこそが人間が人間特有の好奇心を有しているといえる理由であろう。

? 人間が自分の目の前の事象に対して、疑いの心(好奇心)を持つためには第三者的な三次以上の心の理論が必要なのである。

宗教と科学

人間の好奇心を満たしてくれるものとして、科学と宗教がある。一見すると対立的な要素を含んでいるが、どちらも〈何故世界が我々の目に見えているようになっているか〉説明してくれる。そしてどちらも世界に対して同じ探求的な姿勢をとっている。また、科学や宗教は観念の世界に属しているわけで、観念や概念は言語がなけば共有できない。つまり、言語の発明が人間の高次の心の理論を生み出す助けをしたともいえるのではないだろうか。


■ まとめ

人間の好奇心は二つの部分に分けられる。1.進化の過程から見た我々がいまだ持っている古い形質である探索の衝動。2.自分の周りの世界の現象をそのまま受け入れないで、「何故?」と疑う心(これは高次の心の志向水準によっている)。まず、「探索の衝動」が土台になりその上で、人間の脳の肥大により「疑う心」が生まれたのである。

余談

「疑う心」が言語を使えるほどの高度の志向意識水準に由来するということは、何が人間の脳を大きくしたのかという問いが来るわけだが、それはこのテーマ以上のことになってしまうのでここで簡素に説明する。言語は、サルの延長で毛づくろいという肉体的接触によって集団の連結を意味していた人間の祖先が、より危険な環境で生きざるを得なくなったときに、より大きな集団を維持する必要が生じ、肉体的接触の不足を補うものとして、声による接触を用いて出来たというものである。抽象的な観念を操る言語を用いた思考も、本来の機能からすれば、副次的な余談でありお互いをつなげる機能を果たす「社会的噂話」こそが人間の言語の最も重要な機能なのである。このことから、現代の若者が携帯電話で「噂話」をするのは必然な事なのである。


参考文献

デズモンド・モリス「裸のサル」1979.5.30  角川文庫
デズモンド・モリス「舞いあがったサル」
大島渚「潜在脳はこうして活かせ」1999.4.15 ダイアモンド社
ラッシュ・ド−ジアJr「恐怖、心の闇に住む幽霊」1999.10.8
ロビン・ダンバー「言葉の起源」1998.11.22 青土社