アメリカ民主主義にみる根幹思想

〜民主主義というプロトコル〜



[目次]
はじめに
第一章  独立宣言にみるアメリカ民主主義の理念
第二章  プロテスタンティズムの精神とアメリカ民主主義における関連性
第三章  アメリカにおける支配形態の変化
第四章  オルテガにみる民主主義
結論



はじめに
現代に生きる我々の共通認識において、誰もが信じて疑わない規範は「民主主義」ではないだろうか。民主主義国家に生きる我々は、この「民主主義」を当たり前の原理とし、社会生活を営んでいる。その民主主義の中で、もっとも我々にとって自明の原理は「基本的人権の尊重」という言葉である。我々は、この「基本的人権の尊重」を人間行動の根幹認識とし行動しているのである。またこの「基本的人権の尊重」から導き出される概念として、「人権」「自由」、この2点を我々の日常生活の根幹理念として生活しているわけである。民主主義は世界の歴史の中でもっとも後発の理念の一つであり、現在における大多数の国はこの理念を採用しており、このことからも「民主主義」はグローバルな理念となっている。このことより、民主主義という概念は世界の共通プロトコルであり、現代社会においてもっとも受け入れられた社会規範といえよう。




第一章 独立宣言にみるアメリカ民主主義の概念
現代社会を席巻している強大なイデオロギーとして、アメリカ民主主義がある。経済・軍事大国としてのアメリカは、いまや誰も疑いのない世界のリーダーであり、同時に強力なアメリカ民主主義というイデオロギーを全世界に浸透させている「イデオロギーリーダー」でもある。この点に注目し、アメリカ民主主義それ自体について考察してゆく。

 アメリカ独立宣言に、次のようなくだりがある。「我々は以下のことを、自明の真理と信ずる。 すなわち、すべての人は平等に造られ、 造物主によって、奪うことのできない権利を与えられており、 その権利には生命、自由、 および幸福の追求が含まれることである」(トマスジェファソン アメリカ独立宣言より)アメリカ独立宣言によれば、自由、平等、幸福の追求、人権、このような「権利」は造物主によって人間に与えられた権利であるとしている。ここでの造物主とはキリスト教の神であるのだろうが、ここで一つの疑問が浮かぶのである。はたして「権利」というものは、神によって付与されるものであるのだろうか?もしそうであるのならば、神から付与された「権利」には必然的に「義務」という概念がついてくる。また、「権利」とは相対的な概念であるから、何者かへ向けて自己の有するであろう権利を主張し、それ自体を獲得すべし、という“請求の意志“が付いて回る。我々の生活において、「権利」を主張するときには必ず、我々が有するとする「権利」をあやうくさせる対象(国家であろうと他者であろうと)が存在し、かつその対象へ向けて何らかの「権利」を我々は獲得しようと要請するのである。アメリカ独立宣言における「創造主から与えられた自明の権利」というくだりは、必然的に「権利」を付与された人間と創造主との契約関係であると考えられよう。ここに存在するのは「造物主から与えられた権利」と、それに対する「造物主への義務」である。これにより民主主義の根本理念とも言うべき、人権、自由、平等、幸福の追求は、神と人間との契約関係によって成立せしめた「権利」と「義務」、この二つの概念によって構成されているのである。

 それでは、そのような「権利」とはいかようにして、造物主から付与されるのであろうか。造物主に対して、人間が敬虔な信心を持ち、その規範に従うのであれば、この「権利」と「義務」の関係は相対的にバランスのとれたもののように見える。しかし、造物主は我々に語りかけ、その行動をいちいち指導してくれるわけではないのである。まして、造物主を信じない人間にとっては、この「権利」と「義務」という概念は全く意味のないものになってしまうのである。つまり、造物主を信じないものにとっては、人権も、自由も、平等も、幸福の追求もなんら保証される「権利」ではなく、それに関する「義務」もまったく意味のないものになってしまうのである。このことから、人間が当たり前に感じている“自己の生得的権利”は全く保証されるものではなくなってしまうのである。これでは、「人間が自明に生得的に有する権利」を確証立てることができなくなってしまう。

 では、果たして我々が当たり前のように要求し、自明の事としている「権利」とはどのようにして、その根拠づけをなす事が可能であるのだろうか。17世紀の思想家、ホッブスはこの疑問に対して助けとなる考えを提示してくれている。ホッブスによれば、その著書「リバイアサン」において、神にも、国家にも、伝統にも頼らずに知性と契約によって統治された国家(コモンウエルス)を理念系モデルとして提示している。ホッブスは、人間は“自然状態”註1 において、各人は各人の欲求を満たす事を前提とした「自己中心的存在」であるとしている。このような状態において人間は「自然」に平等にデザインされており、そこには「弱気ものも結束して強き者を殺せる」 註2という意味で“平等”が存在するのである。この“自然状態”において人間は三つの本性を有している。それは競争、不信、自負であり、いずれも自己の生存欲求を肯定し、他者への侵略を促すものであるとしている。註3この状態において人間は、「万人の万人にたいする戦闘」状態にある。註4ここでの“自然状態”は人間の「各人は各人にとって敵である」という状態を作りあげている。このような、“自然状態”において、人間は“万人が万人にとって敵であり、かつ誰もが誰かに殺されうる存在”であるという点において平等であるといえよう。このことより、人間には一つの「権利」が存在するのである。ホッブスはそれを“自然権”註5と定義し、「各人が自分自身の自然すなわち生命を維持するために、自分の力を自分が欲するように用いうるよう各人が持っている自由」註6であると定義づけている。 

では、その「自然権」とは誰によって付与さたのもなのか?という問いが湧いてくる。ここで、ホッブスは“自然権”を「自分の力を自分が欲するように用いうるよう各人が持っている自由」註7としている。つまり、“自然状態”として「平等」な人間関係において、「自分の力を自分が欲するように用いうるよう各人が持っている自由」は、それ自体(人間の命本来)の「権利」であるとしている。神も共同体も国家もないアノミー的状態(万人の万人に対する闘争状態)において、権利を付与しているのは自分自身の命であり、その権利を受けるのは自己の肉体ということになるのである。そのような状態においては、各人が各人の為の「権利」を行使し、それが必然的に他者の権利をも侵害するという状況になってしまう。そして、この「自然権」は結果として他者に対しての「権利」をも自己のうちに持つということになる。つまり、このような“自然状態”における「万人の万人に対する“自然権”の行使」は、各人にとってのいかなる生命の保証もされ得ないのである。つまり、各人が各人の“自然権”を行使すれば、それは逆説的に自己の安全をも保証せず、「万人の万人に対する闘争」状態は、すべての人間存在の安全を保証しないということになる。

この「万人の万人に対する闘争」状態に対して、ホッブスは“自然法”註8の概念を対置させている。“自然法”(レクス・ナトゥラリス)とは第一に「理性によって発見された戒律または一般法則であり、それによって人はその生命を破壊したり、生命維持の手法を奪い去るような事柄をおこなったり、また生命がもっともよく維持されると彼が考えることを怠ることが禁じられる」註9、第二に「人は多の人々も同意するならば、万物にたいするこの権利を喜んで放棄すべきである。そして自分が多の人々にたいして持つ自由は、他の人々が自分にたいしてもつことを自分が進んで認めることのできる範囲で満足すべきである。」註10と主張している。つまり、ホッブスのこの定義において“理性”によって発見されたものは、「自己の自然権を破棄すること」による戒律であり、一般法則である。つまり人間が“自然状態”で自ら持ちうる“自然権”を行使する状態では、「万人の万人に対する闘争」が起こる。しかし、理性によって発見した“自然法”に従い、“自然権”を破棄することによって、人間は平和と生命の安心を得ることができると解釈できよう。このことから、ホッブスにおける人間の「権利」とは、自ら進んで破棄することによって、社会生活かつ国家建設、さらには平和が達成されるというものなのだ。

アメリカ独立宣言における「造物主に与えられた自明の権利」は、造物主と人間との契約関係において成り立つ「権利」であり「義務」であると先に述べた。ホッブスの「権利」解釈を使ってこれを説明すれば、「権利」とは自らの中にそなわっているものであり、それは要求するものではなく、積極的に放棄するものであるといえる。アメリカ独立宣言においての「権利」は創造主という裏付けを背景に、ただ単に「自己の欲求を請求する」為のものであったのではないだろうか。また、創造主との契約における「義務」というものを、大衆の信心にまかすという点で、あやふやであり、いささか便宜主義的な理念であるとはいえないだろうか。このことからもアメリカ民主主義における「権利」と「義務」の概念は、大衆の創造主への敬虔な信心にのみ依拠しており、かつそれのみによって保証されていたということがいえるだろう。また、ホッブスの「権利」解釈によれば、アメリカ民主主義にみられる「創造主から付与された自明の権利」という概念は、必然的に不自然であり、不安定な「権利」であるといえよう。




第二章
プロテスタンティズムの倫理とアメリカ民主主義における関連性


それでは、アメリカ独立宣言における「造物主によって与えられた自明の権利」とは、どのようなバックグラウンドから生起しているかを考察する。
 中世末期においてローマ教皇を中心とするカトリック教会は腐敗し、堕落の一途をたどっていた。当時のカソリック教会は、「罪を金銭を払うことよって許す」とする免罪符の発行を行っていた。1517年マルチン・ルターは腐敗したカトリック教会に対して、九十九箇条の論題を提出し堕落した教会を非難した。しかし、当時のカトリックでは教皇の権力は絶対であり、破門を言い渡される。ルターは1520年に「キリスト者の自由」を発行し、聖書こそがキリストの教えであるとする「信仰のみによる魂の救済」をかかげた。このルターの行動はヨーロッパ各地に飛び火し、キリスト教を独自解釈する宗派を形成しる。この一連の宗教改革によりプロテスタントが誕生したのである。

 マックスウエーバーは著書「プロテスタンティズムの倫理とその精神」において、プロテスタント信者における宗教心と資本主義の関連性について述べている。カルヴァン派とプロテスタント信者は「予定説」註11からくる自己の内面的孤独化を通して、人々が従事する職業労働はすべて「神の栄光」のためである、とする世俗内的禁欲をその宗教心の中に内包し、営利目的の労働ではなく、自己抑制と自己没却の二面性を併せ持っていた。これが資本主義の精神とよばれているものである。カルヴィン派の中心教義は「恩恵による選びの教説」であった。これは、『神はその栄光をねがわんとして、自らの決断によりある人々を〜永遠の生命に予定し「predestinated」、他の人を永遠の死滅に予定しforeordainedたまうた。』註12(一六四七年ウエストミンスター信仰告白 第三章 神の永遠の決断について 第3項)にみられるように、人間の魂の救済はあらかじめ決定されている とする「預定説」の教義において、神の決断は絶対普遍であり、そこにはなんら神以外の力はおよばない。この教義が宗教改革時代の民衆に及ぼしたのは、個々人のかつてみない「内面的孤独」註13の感情であった。人々は「永遠の昔以来定められている運命」に向かって孤独の道を辿らねばならなくなったのである。

この「預定説」の教義により、カルヴィン派プロテスタントは、誰にも助けを求めることのできない魂の「孤独」を感じたのである。もはや、教会も、親類も、聖礼典さえも、魂の救済を保証することはできない。この「内面的孤独」の感情によって、カルヴィン派プロテスタントはカソリック的な伝統から解放され、ウエーバーの言う“伝統的な魔術"註14から解放されたのである。またこれに付随してカルヴィン派プロテスタントは、カトリック的伝統から解放されただけでなく、「孤独」と「自由」をも手にいれたのであり、こうした信徒と神との関わりあいは深い「内面的孤立化」のうちにおこなわれたのであった。

彼らにとって現世で与えられている使命は「神の自己栄化に役立つ」ということであった。しかし、「預定説」で「魂の救済」が前もって決定されている以上、自分が救われるのか、または救われないのかということについて、「選びの確信」をどのようにして得るのか、という疑問が信徒の心象に必然的に帰来したのである。しかし、「選び」を信徒が主観的感情によって判断することはでききない。人々は「自分は救われる」という自己確信を得るために、「神の栄光のため」という標語の元、絶え間ない世俗内的職業労働註15を自ら教え込み、これによって“選ばれている者である”という自己確信を得たのである。すべての職業労働は「神の栄光のため」、つまり職業労働によってのみ宗教上の疑念は追放され救われるのである。職業労働は救済の疑念を取り払う技術的な手段となり、このような自己抑制と自己没脚の二面性が自己の営利活動を抑制しつつも、合理的献身に身をまかせるプロテスタントの精神を作り上げたのである。またウエーバーは、こうした「人間の内面的孤独化の思想」は、現代のピュウリタニズムの歴史をもつ諸国民の「国民性」に生きていると主張している。のちにアメリカ大陸へわたった「ピルグリムファーザーズ」もまた、イングランド系のカルヴァン派のプロテスタントであったのである。

プロテスタンティズムに見られる「人間の内面的孤独化の思想」は、それまでヨーロッパのカトリック的価値観に縛られた信徒を“魔術からの解放”によって切り離し、「孤独と自由」を与えたといえよう。第一に個人はその切り離された状態において、伝統・慣習からの自由と孤独を得たのである。第二に中世社会において、聖書はキリスト教者のゆるぎなき絶対の世界観であったのが、それを自己の信ずる解釈によって説明するという見地から「自己の信ずる解釈によって世界を説明できる」という心象をも手にいれたのである。第三に、自己の魂の救済を求めるという「選びの教説」からも、自己の「魂の救済」のみを望み、それを“手に入れようと渇望“する、という特性が導きだされる。それでは、この三つの特性について、もう少し考察してみることにする。

 プロテスタント信者は、腐敗したカトリック教会に対して“異議申し立て“をし、その結果自己を伝統的社会から切り離した。この”切り離し“が「孤独」と「自由」を生み、かつ伝統的社会という規範を失った事より、新たな”規範“を、伝統的社会より高次の規範である”神“へ一心に求めたのである。このとき、彼らには伝統的規範に変わる絶対的な規範が必要であったのだ。そしてキリスト教の教えの中で絶対的と思われる教義に「預定説」があったのである。この「預定説」の教義にある「救われる者は神の意志によって決定されている」とする、ある種の運命論的記述が、伝統社会から切り離され、「孤独」により新たな規範を模索するプロテスタントにとって、信じるに値する大きな光となったのである。なぜなら、カトリックに属していようが、プロテスタントに属していようが救われるものは最初から決定されており、自己のカソリックを信じないという反伝統的態度によって、神に罰せられるという確証は無くなるからである。”救われるものはすでに決定している“こう考えることによって、その教義に絶対的な信頼と自己の規範を見いだし、迫りくる「孤独」への光としたのである。このようなプロテスタンティズムの心象において、新たな規範となった「預定説」は、結果として”彼らが救われると確信できるよう”強い神への信心と、自己の“魂の救済”を「神の栄光」という名の下に“自己の魂の救済“を確証づけてくれる職業労働をもたらしたのである。

 「強い信心」は彼らに“神に選ばれる”という事を意識させ、絶え間ない職業労働をもたらした事は、先にのべた。このことにより「強い信心」を持ち、絶え間ない職業労働に従事する彼らは、結果的に“神に選ばれた者”になったのである。“選ばれた者“という概念は、神によって規定された範囲内での自己の「権利」の拡大を肯定する思考を必然的に内包している。この「権利」に伴う「義務」は絶え間ない職業労働によって払われる。この、”選びの確信“は神からプロテスタントへ付与された「権利」を意味し、”職業労働“はプロテスタントから神への「義務」を意味するという関係になる。この”選びの確信“と”職業労働“という両輪によって、プロテスタントは人類が未だ到達しえなかった地点へと自らを導いたのである。その帰結が、アメリカ民主主義の独立宣言であったのである。

    アメリカ民主主義において、「権利」は創造主によって与えらるものであり、その神の定めた領域において人間は「権利」を主張できるのである。これはプロテスタンティズムの「自己の魂の救済」を求め、「神の栄光のため」に職業労働にはげむ姿に重なるのである。神の定めた救いを確証づけるため、「神の栄光」を実社会で証明するため、彼らは職業労働にはげむ。この点で、プロテスタンティズムの精神はアメリカ独立宣言においても、その姿を残しており、アメリカ独立宣言はプロテスタンティズムがその本質のうちに内包する「権利」を求めて、渇望する“請求への意志”とも重なるのである。




第三章 アメリカにおける支配形態の変化
〜牧歌的アメリカ民主主義における支配形態〜

この章では、アメリカ民主主義がいかにしてその全体像を変容させてきたのかについて考察する。
まず、アメリカ民主主義の原始的な統治形態において、トマスジェファソンの描いた民主主義の統治について考察する。トマスジェファソンはアメリカ第三代大統領として、誰よりもアメリカ民主主義像の形成に貢献した人物である。ジェファソンはアメリカ民主主義の中心民衆は小作農家であると考えていた。註16
本来、民主主義(デモクラシー)とは、「大衆が支配権を有する統治体制」のことである。このことをふまえると、ジェファソンがその胸に抱いた原始的アメリカ民主主義における統治体制は「白人のみによる支配」という点をのぞけば、この原理に沿ったものである事がわかる。

ジェファソンはアメリカ民主主義の統治体制として、小作農家を中心とするコミュニティの集まりを想像していた。国民は各人が有する限定された領地(各人が自己の領地に関する情報を、自己充足的に把握できる範囲)において自発的かつ主観的に情報を得られる。つまり、牧歌的アメリカ民主主義の統治体制においては「人々が住居地域内で一切の因果がおさまるような事柄としか関わりをもたないような世界」註17の中ですべてが収まっていたのである。このような制限された範囲において、民衆は自己に関する情報を自ずと得ることができ、各人の意見が均等に反映される「大衆が支配権を有する統治体制」が確立されていたといえよう。しかし、アメリカの領土拡張が始まり連邦が形成されると、この牧歌的民主主義における前提は矛盾を伴ってしまう。広大な環境と連関の中では、人間は自己の姿を性格に捉えることができない。その思考は"ステレオタイプ"註18に頼り、"疑似環境"註19における認識に頼ることになるのである。自己充足的なコミュニティの中では、各個人が扱う情報は日常経験によって得られるのであり、直接的な日常経験から構成される世界は、必然的に個人の社会的行動を一定の範囲にとどめるものであった。
リップマンによれば、この牧歌的アメリカ民主主義において、各自が自己充足的な存在であると信じて疑われなかったので「市民は等しく万能である」註20と認識され、この謝った誤解により「人間は誰もが重要な事柄についてそれなりの関心をもっていると各市民によって想定されるようになり、またそれが、誰もが感心を持つ事柄こそが重要である。」註21といった、ステレオタイプが市民の間に構築されていったのである。つまり、各人は自分の範囲だけの世界をみて、「自分は世間について知識があると勘違いし、自分が興味のある重要な事柄は誰もが関心を持っているはずである。」というような、主観的判断によるステレオタイプを各市民が形成していったのである。上記の意味において、牧歌的アメリカ民主主義における統治体制は「大衆が支配権を有する統治体制」という状態から、「大衆がステレオタイプによって支配権を行使し、そのステレオタイプをまとめあげた人間が支配権を行使する統治体制」へと変容したのである。



〜合理的支配における統治形態〜

アメリカが急速な経済成長を遂げる段階で、社会の支配形態も変化していった。マックス・ウエーバーによると、資本主義が発展する近代国家においては、必ず「合理的支配」と呼ばれる支配の種類を経験する註22、としている。この「合理的支配」における“服従“は、没主観的で非人格的な法秩序への服従であり、行政委員における場合では、この秩序によって定められた上司にたいしてその指令の合法性の故に行われる“服従“を意味している。この服従関係において、組織が大きくなればなるほど、強い階層制が構築される。階層制の中では各自が目上の者の従者であり、自分もまた自分の従者階級にとっては目上にあたる。リップマンによるとこれを支えているのは、「特権の仕組み」である。例えば、縁故採用であったり、派閥主義、英雄崇拝、固定観念にいたるまで、「特権の仕組み」には種類がある。階層制において注目すべき点は、特に支配的な階層制内部の人物交代が緩慢であるので、一定の大きなステレオタイプや行動型の引継が可能であるということである註23。つまり、階層制は、人間をそのハイアラーキーにおける非人格的な秩序への服従から人間を「化石化」させる可能性が相対的に階層制でない社会に比べて高いということがいえる。

さらに、リップマンによると、このような階層制はどのような社会にも存在し、このような階層制かつマシーンにおいては、少数の人間による支配がみうけられるのである、と主張している。このことを考えるとアメリカ民主主義社会は、社会の成熟ともにますます人間を民主主義たらしめない状態にしているといえないだろうか。人間は、ステレオタイプによる疑似環境によってしか、世界と接する事をできなくなり、社会の階層制構造は一部の人間によるその他大勢の支配を可能にし、「大衆が支配権を有する統治体制」こと民主主義は遠のいてゆくのである。ここで民主主義は「大衆が支配権を有する統治体制」から「大衆がステレオタイプを形成し、そのステレオタイプを操作する一部の人間の存在を強固にし、その人間までもシステムに組み込む”マシーン“による統治体制」へと変貌したのである。かくして、個々人は階層性の中で埋もれ、支配者層においても、マシーンによる影響を被り、民主主義はこのマシーンというシステムによって管理され運営される形態へとその比重を移したのである。




第四章 オルテガにみる民主主義

 オルテガの著書「大衆の反逆」によれば、18世紀に生じた古い民主主義は自由主義と法に対する謙虚な姿勢があり、これらの原理に服するために、個人はきびしい規律を自らに課していた。註24しかし、大衆が政治的支配権を所有するようになり、この古い民主主義は超民主主義へと変化した。大衆は古い民主主義に備わっていた、「自由主義と法に対して謙虚であり、これに服し、自らに規律を課す。」註25という「義務」の側面を考慮せず、ただ「権利」のみを要求する集団となったのである。

この現象は現代の民主主義国家においても顕著な現象であるといえよう。アメリカ合衆国における訴訟数は世界第一を誇っており、アメリカはその意味で、各人が各人の「権利」を要請し他者と争う社会であるといえる。本来訴訟とは、法的に自己が有する「権利」が何者かによって侵害された時、侵害した相手との間で生じるものである。この原理に沿って考えれば、アメリカにおける国民性は、自己の権利を拡大解釈し、他者の権利へも抵触する行動が頻繁に見られるという事がいえるだろう。このような自己の「権利」への過剰とも思える要請は、法によって定められた社会的公正を損なう行動であり、そこには他者の「権利」に対する配慮と法に対する「義務」ひいては、社会的な義務への感情の欠落があると考えられる。アメリカ独立宣言においてみられた神との契約関係において生じた「権利」と「義務」の関係。プロテスタンティズムの精神にみられた神への信心と職業労働によって締結された「権利」と「義務」の関係は、薄れてしまっているのである。この現象は、一般大衆のみにおこっている現象ではなく、アメリカ政治の中枢である大統領府においてもみられる現象である。オルテガはこのような“大衆が「権利」のみを欲求し、自己の欲望を肯定する行動”の原因を「民主主義のおかげで生じた、すべての人を平等化する諸権利」註26にあると主張している。「生得的に我々が有しているとする、自明の権利」という概念を、大衆は無意識の欲求や自明の前提としてしまったのである。

このような、人間心理の質的変容は17世紀から生じた大衆の啓蒙的教育の進歩と、それと平行する社会の経済的繁栄の内に生じたのである、とオルテガは指摘している。結果として、民主主義の原動力となった、自由主義と技術革新は大衆に最も重要である「義務」の概念を十分に固着させるには至らず、民主主義は自己の「権利」を振り回し正当化する“手段“になり果てたといえよう。オルテガによれば、大衆が自己の「権利」を自明なものと信じ、自己に課された「義務」に関心を払わない状態を「慢心したぼっちゃん」註27と表現している。現在存在する民主主義はこの意味でホッブスのいう”万人の万人に対する闘争“状態へ近づいてゆき、「慢心した坊ちゃん」状態の大衆が自己の欲望を「権利」という名の元に肯定する事により、民主主義というシステムは”人間に理性を使わせないシステム“になりはてたのである。




結論

アメリカ民主主義における「権利」の概念は、造物主と人間との契約関係によって成立する概念であった。これは、プロテスタンティズムの精神をバックグランウンドとし、現在では世界の共通規範として存在している。プロテスタンティズムの精神が今日の世界をデザインしたといっても過言ではないであろう。しかし、民主主義が大衆へと拡大し、その領域が広がるにつれて、我々は「権利」に付帯する「義務」へ配慮することがなくなってきている。また、社会の形態が変化するにつれて、我々は自己をシステムによって規定される存在とし、システムに自己を切り売りしている傾向にある。このことからも、民主主義は個人の「権利」のみを要求し・正当化するツールへと変貌した。我々はその「権利」の背後にある、歴史的背景や責任について思いをはせる謙虚な姿勢をも忘れてしまっている。我々はこの「自明のものとされた権利」・民主主義そのものを再考する必要があるのである。文明の高度化は、我々の生活を物質的に豊かにし、多様な要求にも即時的な満足を与える機会を増大させている。この状態に対して慢心するのではなく、“理性“を復権させ、各人が各人の「義務」を全うすることによってしか、本来の民主主義は維持され得ないのである。






脚注

註1ホッブズ『リヴァイアサン』,p154[本文]
註2ホッブス 『リヴァイヤサン』,p154 [本文]
註3ホッブス 『リヴアイヤサン』,p156 [本文]
註4 ホッブス 『リヴアイヤサン』,p156[本文]
註5ホッブス 『リヴアイヤサン』,p159 [本文]
註6ホッブス 『リヴアイヤサン』 ,p159[本文]
註7ホッブス 『リヴアイヤサン』 ,p159より [本文]
註8ホッブス 『リヴアイヤサン』,p160 [本文]
註9ホッブス 『リヴアイヤサン』 ,p160 [本文]
註10ホッブス 『リヴアイヤサン』 ,p160
註11マックス・ウエーバー 『プロテスタンティズムの倫理とその精神』,p169 [本文]
註12 マックス・ウエーバー 『プロテスタンティズムの倫理とその精神』,p169[本文]
註13 マックス・ウエーバー 『プロテスタンティズムの倫理とその精神』,p175[本文]
註14マックス・ウエーバー 『プロテスタンティズムの倫理とその精神』,p175 [本文]
註15マックス・ウエーバー 『プロテスタンティズムの倫理とその精神』,p188 [本文]
註16W・リップマン 『世論』(下巻) ,p104 [本文]
註17 W・リップマン 『世論』(下巻) ,p106 [本文]
註18 W・リップマン 『世論』(上巻) ,p41 [本文]
註19W・リップマン 『世論』(上巻) ,p109〜p130 [本文]
註20 W・リップマン 『世論』(下巻) ,p111 [本文]
註21 W・リップマン 『世論』(下巻) ,p111[本文]
註22 マックス・ウエーバー 『支配の諸類型』,p3〜p20[本文]
註23W・リップマン 『世論』(下巻) ,p52〜p56 [本文]
註24オルテガ 『大衆の反逆』,p393〜p394[本文]
註25 オルテガ 『大衆の反逆』,p393〜p394[本文]
註26 オルテガ 『大衆の反逆』,p398[本文]
註27オルテガ 『大衆の反逆』,p461〜p463 [本文]



参考文献
著者名文献名出版社名出版年次
W・リップマン『世論』岩波文庫1987.7.16
マックス・ウエーバー『プロテスタンティズムの倫理と精神』中央公論社 1979.8.20
マックス・ウエーバー『支配の諸類型』 創文社1970.10.5
オルテガ『大衆の反逆』中央公論社1979.12.20
ホッブス『リバイアサン』中央公論1979.9.10
大嶋 仁 『ユダヤ人の思考法』ちくま新書 1999.8.20


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