学術的自己紹介
始めに 
 私は周知の通り、聴講生という立場にある。従って、今回の中期レポートを書く義務はない。 しかし、私は学術的自己紹介をする必要があると感じた。なぜならば、学術的自己紹介によって自己を客観 視でき、自分を知る事に繋がる。つまり、私の学術的自己紹介は自己のための自己紹介である。私が普段何 気なく考えている事や、私による私自身の分析を記述していくという形をとる。

免許について
 鳥取での免許合宿は私の自尊心が大きく傷つく出来事であった。3日ほど延長してしまったのだ。そこそ こ運動神経にも自信がある。運転の仕方も頭で認識している。にもかかわらず、運転できない。いったい、 どのような能力が私には欠けているのか。それとも他になにか原因があるのであろうか。その解答は今もな お、謎である。

学生マンション、シ○ルム○0○号室について
 シ○ルムは私の住むマンションだ。その○0○号室には私の親友であるK君が住む。シ○ルム○0○号 室は私の学術面おいて大きな意味を持つ。ここは私の考えをアウトプットする場所となっているのだ。そ れに対して、K君が批評を加える。時には、彼のアウトプットを僕が批評する。つまり、シ○ルム○0○号 室は身近に討論や意見交換する場となっているのである。このような場を持つ事は非常に重要な事である。

運命について
 当然のように過去は一本道である。それに対して、未来は複数の選択肢が準備されている。しかし、 私はふと思う。未来も一本道なのではなかろうかと。すべてが運命づけられているのでなかろうか。今 、私が行っていることはすべて必然的でなのではなかろうか。偶然性など無く、必然性しかないのでな かろうか。我々の意志も必然性に縛られた、準備された意志ではなかろうか。ここまで考えて私はひど く無気力な状況になる。すべてがどうでもよくなる。もちろん、このような考えなど空想に過ぎないこ とは承知である。なんの根拠もない。最後に、このような考えが、占い師の存在について考えることか ら導き出された事を付け加えておく。

時間について
 時間は平等である。しかし、体感される時間は決して平等ではない。セネカが言うように人生はその 人しだいで短くも長くもなる。そして大半の人はその人生を短くしている。また、我々は充実した時間は 短く感じるが、退屈な時間は非常に長く感じる。なぜ、このように過ごす内容によって違う長さに感じる のか。科学的な答えを知りたい。

思考について
 人間は一般に言語によって思考するといわれている。実際、人間は自己の思考内容を表現するとき言語 を使用する。しかし、これは、動物もまた思考するという事実に反する。思考にとって言語とは ではない。立花隆氏によると、人間は言葉で考えるのではなく、言葉が出てくる以前からで考えていた事 を言語で表現しているだけという。そしてこの言葉が出てくる以前の考えとは、非言語的原始概念であ るという。私自身、英語を使うとき、表現したい事が頭のなかにあるのにそれを英語に出来ないという 経験がある。その時、決して頭のなかで日本語を使っていなかった。にもかかわらず、ある考えが頭の 中にあったのだ。しかし、本当に言語なしに思考が可能であろうか。言語無しでの思考とはいったいど のような物であるのか。言語なしで認識は可能なのであろうか。なぞは深まる。
 また、思考について次の疑問も浮かぶ。それは思考においての意識と無意識の関係である。アダマー ルによると人間が一つの文を発音しているとき、その次に来る文は既に準備されており、それは無意識 で行われると言う。また、野口悠紀雄氏によると、人間とは寝ているときも、食事している時も無意識 の中で考え続けているという。数学者ポアンカレによると、無意識活動と意識活動はそれぞれ独立して 存在しているのではなく、その相互性において思考されるという。立花隆は、インプットとアウトプッ トの間は無意識のうちに進められる作業であるといい、ブラックボックスだという。考える材料を頭に 詰め込んだら後は発酵を待つのだという。つまり、我々の思考は決して意識的作業ではなく、無意識的 作業との相互作用によってなされる。
 次に発想と知識の関連性についても興味が及ぶ。私は発想とは知識から生まれると考える。決して無 から有は生まれないのだ。全くの独創的なアイデアなど存在しない。実際、アインシュタインの相対性理論、コペルニクスの地動説のような独創的な発想も他人のアイデアの延長線上にあったといわれる。つまり、発想のためには、知識や情報が必要であるのだ。故に、知識が多い人ほど独創的な発想をする可能性が高まる。我々が大学で学ぶ意味はここにあるのではなかろうか。 
 我々は思考する。当然のごとく思考する。しかし、思考を思考したとき、満足する答えを得る事はでき ない。

環境問題について
 自然環境問題は深刻である。そして人間はそれを解決しようと努力している。では、なぜ環境を保護し なければならないのか。人間中心主義の立場によるとそれは人間が生存する為に必要であるということで ある。それに対してディープエコロジストたちは環境自身に固有の生存権が存在するからであるという 。人間中心主義の立場は明快であり、実際そのために多くの人々が環境保護をしている。ホッブスの人 間観などから見てもそれが当然であるように思える。それに対して、ディープエコロジストの立場には 不可解な点が残ると言わざるえない。そもそも固有の生存権の存在をどのように論証すればよいのであ ろうか。これに対して原生林の中での生活で直感的に感じるという超越主義の立場がある。しかし、そ れは本当だろうか。本当に万人が同じように感じるだろうか。また、その原生林の状態・条件によっても 感じ方は変わるではなかろうか。そもそもそれを感じるのは人間である。人間がそう感じるから生存権を 環境にも与える。このようなディープエコロジストの立場こそ人間中心主義のように思えてくる。
 しかし、実際、ディープエコロジストの立場での政策のほうが環境保護をしやすいのは事実である。 従って、人間中心主義の為にディープエコロジストの立場が利用される可能性もあるように思える。つ まり、それはあくまで人間のためのディープエコロジーである。

KJ法について
 KJ法とは川喜田二郎氏が、提唱した有名な「発想法」である。これはカードの並び替えで発想しよう というものである。具体的には次のとおりだ。
 まず、主題に関しての観察された事実、思考の断片をとにかく吐き出す。そして、それをカードに書き 出す。その数100枚のカードをカルタのように広げる。内容的に近いと思われるカードをまとめる。そし て、それらのまとまりごとの論理関係を考え、発想していく。この作業は数人で行われる。
 一年前、KJ法をある機会(SAの仕事で基礎Iの授業に参加したときである。)で試すときがあった 。しかし、その時の内容はさんざんであった。まず、時間がかかりすぎる。ブレインストーミングをして カードを作るという作業だけもに授業の時間では足りなかった。ようやく完成されたアウトプットも大し た物ではなかった気。現在でもこれほど非効率な事をやろうとは思えない。
 野口悠紀雄氏はKJ法について、次のように厳しい批判を与えている。
 「発想とは知識と知識の組み合わせで行われる。そして、どの知識と知識を組み合わせるかという判断 は無意識が行う。無意識は頭の中に存在する無限の材料から真に必要な情報を判断し、意識にそれを浮 。それに対して、KJ法はとりとめのない情報を集め、その論理関係を考える。つまり、無意識的作業を 意識的に行おうとしている。KJ法による組み合わせは無駄な組み合わせであり、本来なら無意識によって 排除されていたものである。」
 同様に立花隆氏も人が頭の中で自然に行っている作業をわざわざ、外部化するKJ法などまったく非効 率だと言う。また、KJ法以外にも存在するシステマティックな発想法も無意味であるといっている。
 しかし、一方で板坂元氏は、KJ法はマージャンのようであるとある一定の評価を与えている。実際、 多くの組織で実用されているという話も聞く。KJ法とは効率的なのであろうか、非効率なのであろうか。 一度鎌田ゼミで試してみてもおもしろいかもしれない。
 
コンテ(プロット、アウトライン)について
 コンテとは、論文の流れを作る為の設計図のことである。当然、一般論ではコンテは必要とされる。 しかし、立花隆氏はコンテなど作成しないほうがよいという。
「コンテを作る作業は、これが最適と思われる流れを始めに無理やり作ってしまい、そのあと材料をそ こに流し込むだけになる。しかも、その流れは目の前の材料のみによって作られてしまう。重要なのは 目の前にある材料以上に、無意識に詰まっている材料である。コンテを作成する事は無意識の材料が頭 に浮んでくるのに制限を加えてしまう。無意識の材料は必要なときしか頭に浮んでこないのである。私 も以前コンテを作成したことがあるが、コンテどおり進まず、書くだけ無駄になってしまった。」つま り、立花氏によるとコンテとは無意識の材料を生かしきれなくさせるものであるという。
 しかし、この意見はあまりに奇抜過ぎないであろうか。そもそも何かを書くというときそのサマリー は存在している。サマリーとはコンテではなかろうか。立花隆自身書くとき、サマリーは存在していた はずだ。サマリーとコンテとは違う物なのであろうか。また、新聞の記事のように5W1Hを書くとい う原則もコンテそのものであり、必要なものである。
板坂元氏はコンテ無しで書くのは、地図を持たずに旅行するようなものだと逆の意見を述べている。実 際私もまた、今回の学術的自己紹介を書く上で、どのように書くか考えた。今、横にある紙には、「発 想について」、「時間について」、「KJ法」についてなどコンテが準備されている。そして、それぞ れについて簡単なサマリーがメモられている。また、コンテは無意識の能力に制限を加えるというが、 それ自体本当であろうか。仮に、コンテが存在しても必要な情報は嫌でも浮んでくるように思える。
 また、仮に論文のコンテが不必要であったとしても以下の疑問が浮ぶ。建物の設計、まちづくりの設 計、イベントのプロット、また、授業におけるプロットなどコンテは世に溢れている。では、論文にお けるコンテとそれらのコンテの違いはどこにあるのであろうか。立花隆氏にはそこのところまで言及し て欲しかった。
 ここまで考えて来て、立花氏の意味するコンテと私の考えるコンテとの間に定義の上で食い違いがあ るように思えてきた。何だかよくわからなくなってきた。
 
最後に
 まだまだ書ききれない。私が日ごろ疑問に思っていることはこの程度ではない。しかし、最近よく考え ることについては大まか書けたので善しとしよう。アウトプットするこによって自分自身の中にある考え や疑問も明確化された。
 ここまで読んでこられた方はなぜこのような事を考えるのであろうと不思議に思うかもしれない。その 答えはもちろん存在するし、自分の中で明確なものとなっている。しかし、ここでは、それについては 述べない。しかし、いずれ機会があったらその事も述べるつもりでいる。

 参考文献
立花隆、「「知」のソフトウェア」、講談社現代新書、1984
立花隆、「脳を鍛える」、新潮社、2000
立花隆、「僕が読んだ面白い本・駄目な本」、文藝春秋、2001
野口悠紀雄、「超勉強法」、講談社、1995
野口悠紀雄、「超整理法」、中公新書、1993
野口悠紀雄、「超発想法」、講談社、2000
板坂元、「考える技術・書く技術」、講談社現代新書、1973
川喜田二郎、「発想法」、中央公論社、1967
セネカ、「人生の短さについて」、岩波文庫、1980
ホッブス「リバイアサン」、中央公論社
関根孝道、高畑由紀夫、「21世紀へ環境学の試み」、嵯峨野書院、1995
加藤尚武、「環境倫理学のすすめ」、丸善ライブラリー、1992





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