学術的自己紹介

最近、騒がれていた靖国参拝問題は13日に総理が参拝するということで一応の決着をみた。問題は当初「いく、いかない」ということだったので外圧に屈したというよりも外圧に配慮したという形になった。

そもそも靖国にいくということの意味はどういうものであろうか?戦後初の公式参拝をした中曽根康弘元総理は85年7月27日の自民党軽井沢セミナーでの講演の中で、戦争の侵略性・加害性を承認する見解を、「東京裁判戦争史観」、「マルクス主義戦争史観」などとした上で、「自虐的な思潮」からの脱却と日本人としてのアイデンティティーの確立をするとした。しかし、中国側からみればA級戦犯を祀ることとなり、日中友好条約を締結する際に大戦の原因は一部の上層部であるとしただけにそれを否定してしまわなければならなくなる。締結への一番の問題であったものが再浮上するとその条約さえ揺るがしかねない。そういう政治的危機に直面していたのである。

 

それほどまでに求める日本人のアイデンティティーとは一体何だろう?日本人が日本人であると理解する事。自分の血に誇りを持つ事。ごく単純な事でありながら難しい事でもある。総合政策学部では多くの人が国際人になるべく勤勉している。彼らが他国に出ると彼らは他国の人々に否応もなく日本人を印象付けることになるだろう。「日本人は忠誠心がない」とはよく聞く言葉です。日本のことを勉強せずに日本を出て日本を語る日本人にはなってもらいたくないものです。なぜ、忠誠心のない国民だと言われる様になったのか。それは教育において最も顕著に表れている。靖国問題と前後して歴史教科書問題も再浮上してきました。

 

歴史教科書問題について

実際、歴史教科書の記述がどうだとか言われてみても内容についてはわからないという人がほとんどです。現在多くの教科書検定に受かっている歴史教科書はマルクス主義的、あるいは講座派の見地によって書かれている。講座派というのは「日本資本主義発達史講座」によるマルクス主義理論派のことをいい、寄生地主制、天皇制を絶対主義体制とする日本共産党の支配的理論のことである。それによって、体制に対する反感を根ざす事となる。そして、「自虐的な思潮」とされてきた戦争責任に対する意識を助長するような内容。歴史を学ぶことにおいて時代の流れや現在の日本の成立ちについてするのが筋であり過去への反省を促したり、日本政府への反感を強めるのが一番に来るものではない。歴史教科書問題はその疑問を浮上させたことにおいて有用であるとおもわれる。自分の国に誇りをもてない教科書、それが日本の教科書です。

中国、韓国から出されている歴史の歪曲については一体どれについて述べているのかがわからないけれどもそれは悪意を持つものでもなんでもない。たとえば、韓国の教科書においてはこのような間違いがあります。

高句麗も、多くの文化を日本に伝えた。僧侶の恵慈は日本の聖徳太子の先生となり、曇徴は紙、墨、硯をつくる技術を教え、法隆寺の金堂壁画も彼の作品だと言われている。

歴史を知っている人であるならば常識的な事に続いて、おかしい事にも気付くであろう。金堂壁画はでたらめである。多分、反対に言えば、日本の教科書に対して非難している事もこういうことであるのだろう。他国の教科書を見る限り自国民への自国へ対する誇りを高める役目を担っているようであるが、日本はその逆を強いられているわけである。新しい歴史教科書はその点に於いて他国の教科書に似せて作られたものであり独立国家の教科書であるといえるであろう。

私個人の意見では歴史は教科書の形をとらないで教えるべきであると思う。年表と地図だけで例えば、単元ごとにグループに分かれて地租改正なら地租改正について研究し、発表させるという形が最良ではないかと思います。他国にも言える事ですが、歴史教育がプロパガンダであってはならないのです。

 

戦争責任の所在について

責任を果たすとはどういうことをいうのでしょう。誰に責任があるのでしょう。天皇、政府、陸軍上層部、国民…。日本の敗戦決意と戦争への決意は所在を同じくしている。日本を守るため。日本は島国であるために防衛には難しいものがある。そのために朝鮮半島や中国がしっかりしておかなければならない。大東亜共栄圏とはアジア民族の独立を唱えたものであったがそれはアジア諸国がしっかりした国を持つ事により欧米の支配を受けないようにするためである。

軍事国家への道程として「脱亜論」はよく引き合い出されるものであるが、それは中国や朝鮮への諦めということでだされた。福沢諭吉は実際、朝鮮の革命家を保護し、朝鮮に強い国が生まれるように努力したが結局成されなかったので時事新報にこれを表したのである。マッカーサーも戦後日本を経営するにあたりこの重要性に気付いている。戦争を始める事においては国を守るために仕方がなかったとみるべきである。ただその理由を知らない他国は侵略的に見えるであろうから政府は侵略戦争を認めるのではなく植民地支配と侵略的印象を与えたとすべきなのである。

それでは戦争中の行為についての責任についてはどうであろう。捕虜の強制連行、虐待、従軍慰安婦…これは大いに反省すべきであるし、保障をしなければならない。しかし、その行為については日本軍の残虐さを示す事にならない。シベリア抑留など当時の世界意識としては常識的だったのだ。だから、日本人はこれを原罪のように背負い込む言われはないのである。

 

靖国問題について

靖国神社にいくということはどういうことなのだろうか?これが一番難しい問題である。靖国は日本軍国主義の精神的支柱と言われているが遺族たちから見れば先祖のまつられているところに過ぎない。そこに総理大臣は参拝すべきか。靖国神社は戦争による英霊を奉る神社で宗教法人である。アジア人から見れば国の代表がここに公式参拝する事はA級戦犯を奉る事であるから被害者の感情を意識してほしいというものであった。もしそれが個人の事であるのであれば、子孫が先祖を敬うことは当然であろう。靖国神社が国の礎であるのならば、国として参拝するべきだ。どのようにとらえられるにしろ、靖国は現在日本の先祖である。昭和という時代がもし戦争を機に終わっていたのであれば国としての継続はたたれるので参拝は不可であるが昭和は終わらなかったのである。小泉がいくのは義務であり、歴代がしなかったほうがおかしい。

日本が戦争責任を果たさないといけないのは日本は敗戦により終わってなく、継続している事を示すためであり、礎となった人々を総理がまつるべきである。反対にいってはならないというのであれば、対外の印象において日本は国を継続するものでなく、ドイツにおいてのナチスのように日本政府からA級戦犯を切り離すということなのでそのときの保障をするべきではないということになる。

 

以上のように日本人は先の大戦がどのようなものであったのかを知らずに原罪を負わされている。これを知った結果がどちらであれ国民は自国に対する誇りを持つべきである。自分の意見を持たずにマスコミや片側の見解のみに終わっていたら独立国家であるとは言えないのではないだろうか?