鎌田研究演習もぐり2回生

進級論文

文責:谷口紀仁


消費の共同体


序論
第一章 19世紀における消費社会の歴史的背景
1−1 消費社会の顕在化
1−2 1848年以降のフランス
1−3 19世紀から20世紀初めにおける植民地政策と貧富の差の拡大
第二章 思考の危機
2−1 アメリカの大衆化
2−2 世論形成とステレオタイプ
2−3 ステレオタイプから擬似イベントへ
2−4 理想による思考からイメジ的思考へ
第三章 大衆と戦争とエネルギー
3−1 大衆化の時代的流れ
3−2 自己操作と大衆化
3−3 考え方のコペルニクス的転換
3−4 戦争とエネルギー
3−5 戦争の必然性
第四章 伝統社会における消費
4−1 非生産的消費としての消尽
4−2 古典経済学の物々交換概念と伝統社会における交換概念の相違
4−3 供犠とコミュ二オン(聖体拝領)
4−4 消尽を媒体とした共同体
第五章 現代における消費
5−1 記号と思考へのマスメディアの介入
5−2 贈与システムから記号のシステムへ
5−3 交感(コム二カシオン)から交換(コミュニケーション)へ
5−4 太陽から受けた消尽の義務
結語  生命の遍く沸騰の中で


序論

 伝統社会では、消費とは、共同体を守る役割として定義づけられていた。しかし、現代の大衆消費社会では、消費は、共同体をむしろ破壊するものとして定義づけられる。この変化はどこから来たのであろうか。そして、それが起こった背景にどのようなことがあったのであろうか。20世紀における最大の消費である第二次世界大戦をなぜ、起こったのかではなく、なぜ起こらなければならなかったのかという段階にまで踏み込んで考察していきたい。なおこれを考察するに当たり、近代市民社会と言われる過去200から戦前の歴史までをフランス、アメリカを通じて時代的に眺めていく。

第一章 19世紀における消費社会の歴史的背景


1−1 消費社会の顕在化


 近代市民社会と呼ばれる過去200年を大衆社会から大衆消費社会への移行という観点からフランスを中心に眺めていきたい。1814年にはじまる、ウィーン会議において象徴される正統主義やウィーン体制は、フランス革命で培われた自由主義・国民主義(個人の自由と平等)を抑えるための保守反動体制であった。当時の社会は、一方では特権的な貴族階級社会という階層性に基づいた、個々のアイデンティティーを安定させる社会を望み、また一方では、個人の自由と平等を求める自立的個人、自己実現としての個々のアイデンティティーを不安定化する大衆社会を望む中で、体制的に不安定な時期であった。しかし、1848年の二月革命にはじまるウィーン体制の崩壊と自由主義・国民主義の台頭の中で、産業革命の影響を受けた産業資本家と労働者との勃興がはじまり、この運動は二月革命を起爆剤とし「諸国民の春」と呼ばれる一連の民族解放運動へと広がっていった。またアメリカにおいては、二月革命と同時期に、ゴールド・ラッシュが始まり、金融市場が拡大し、資本の流出が顕著になり始めてきた時期であった。註1

1−2 1848年以降のフランス


 フランスはその後、第二帝政に入り、ナポレオン三世は、ブルジョワジーとプロレタリアートの勢力均衡の中で独裁政治を繰り広げた。体外的には露骨な国家主義と積極的な外交を繰り広げ、勢力均衡を抑える手段として国家的威信をかけた、クリミア戦争に代表される三度の戦争を行った。註2また、体内的には、パリを近代都市に改造し、アケード型の店を増やした。1952年には、ボン・マルシェと呼ばれる世界発の百貨店が登場し、それまでは貴族階級のみが使用し、大衆が手にすることができなかった物も安価で手に入るようになった。そして、このようなナポレオン三世が国威を高揚させるためにとった政策の一番象徴となるのは、1855年にパリで開かれた万国博覧会であった。
 万博の目的は、産業の発展とナショナリズムの高揚であり、この博覧会によって国民をより消費活動へと向かわせることによって、ブルジョワジーとプロレタリアートの勢力均衡を保ち、ナショナリズムを高揚することによって国家を纏め上げようとした。その後、1867年に開かれた第二回博覧会では、メキシコ出兵の失敗を癒すための道具として使われ、1889年に開かれた第三回博覧会では、エッフェル塔を建てることによって、普仏戦争で負けたフランスのナショナリズム勃興(権威維持)の処方箋としてまたしても博覧会が用いられた。註3このことから、パリの万国博覧会は、表面的には産業革命の成果を世に知らせるためのものであったが、構造的には、消費を促し、国民経済を活性化させ、人々の欲求を充足させることによってナショナリズムを高揚させ、勢力均衡を保つためのものであったことは明確である。このように、ナポレオン三世が取った人々の消費活動を促進させるような政策によって、大衆社会から大衆消費社会へと次第に移行し始めた。

1−3 19世紀から20世紀初めにおける植民地政策と貧富の差の拡大


 産業革命によって、市民生活は向上したが、19世紀末になるにつれて、自由主義経済が浸透し、労働者の間での競争が激化して、貧富の差が拡大してきた。国際的には、19世紀前半から、原材料の供給源と新たな市場を確保するために植民地獲得が行われていた。ところが、世紀末になるにつれて、植民地分割が終わり、アメリカにおけるフロンティアが消滅したため、それまで信じられてきた無限に発展できるという幻想は無くなった。経済成長による貧富の格差と植民地時代の終焉による経済成長の停滞というこれら二つの出来事を背景として、不自由・不平等の理念が現われ、西欧諸国の帝国主義に反して、植民地独立を願う民族運動などが勃興するようになった。そのような一種の世界的ジレンマを打開する起爆剤として勃発したのが、第一次世界大戦であった。植民地再分割をめぐる帝国主義戦争として始まった第一次世界対戦の背景には、過剰生産の飽和状態を打開するために、軍需産業における需要を高め、国内の経済を活性化するという意図があった。このように、植民地政策と第一次大戦によって、西欧諸国は経済を活性化していった。また、このような中、軍需産業の一貫として、大衆消費社会が形作られていくことになる。註4

第二章 思考の危機


2−1 アメリカの大衆化


 総力戦となった第一次世界大戦後、国際連盟に象徴される平和への願望と戦後の混乱の中で、第一次世界大戦中の軍事産業によって、アメリカはそれまでの債務国から債権国へと変貌した。それに伴い、国内においては、自動車の大衆化、家庭電化製品の大量生産と大量消費と伴に、新聞・ラジオ・映画などが普及した。特に、新聞・ラジオ・映画などのメディアの普及によって、当時の人々にとって、現実とは遠く離れた場所から客観性の無い情報(複雑化した情報)が入り込んでくる時期であった。そのような中でその情報の客観性と操作の問題に気づき、その当時の民主主義を反映する「世論」に関して疑問を抱いたのが、リップマンであった。ここでは、彼の問題意識とその焦点によってこの1920年代に及ぼした我々の思考への影響を考察していく。

2−2 世論形成とステレオタイプ


 まず、情報の客観性と処理の問題に関して、リップマンは、人間には擬似環境と真の環境があるとし、客観性の無い複雑化した情報を処理する時に人間は、一種の擬似環境を形作ることによって情報に反応するという。擬似環境とは、複雑化した情報を処理するためのイメジの環境であり、擬似環境を形作るために複雑化した情報を処理する方法が、ステレオタイプであった。いわば、ステレオタイプとは、一種の人間が情報を処理する際のフィルターであり、これによって人間は複雑化した情報を簡略化し、擬似環境を形作る。そして人間はこの擬似環境に基づいて行動を行い、真の環境に作用を及ぼすという。註5このように、人間は複雑化していく情報化社会の中で、情報を簡略化することによってイメジを形作り、それに基づいて行動を行っているとリップマンは指摘していた
 次に情報操作の問題に関して、リップマンは、「世論」を人の集団によって、あるいは集団の名の下に活動する個人が頭の中に描くイメジであると定義づけ、それは、我々が主体的に形作ったものではなく、むしろ操作されたものであると指摘した。註6その根拠は、新聞というものが、客観性の無い情報源だからである。新聞記者は、多くの複雑化した情報を彼のフィルター(ステレオタイプ)を通して集める。次にその集めた情報を彼のイメジに照らしあわし、ダイジェスト化し新聞記事とする。これを見た我々はさらにこの新聞記事から自分自身のフィルターを通してイメジを作りあげる。つまり、新聞は、記者のイメジによって成り立っており、それをさらに読者はイメジ化することによって情報を得る。であるから、新聞は、記者によって情報を操作される可能性があり、決して客観性は無い。とすると主に新聞の情報源によって形作られる「世論」は、操作されたものであって決して情報を客観的に管理した上でのデータであるとはいえない。リップマンはこの一例をあげ、世論によって形成される民主主義自体も真の意味での民主主義ではなく、むしろ情報操作されることによって形成されていることを指摘した。
 ここで、リップマンが提示した問題提議は、民主主義は世論によって形成されており、その世論は、情報を握る側によって操作されており、決して客観性の無い情報源であるということである。そしてそれらはイメジの産物であり、我々はそのイメジを知識、真実として無批判的に受け止め、イメジに基づいて行動することが問題であるということである。つまり、我々は主体的に考えて行動しているようで、実は操作されたイメジに基づいて行動しているということであった。

2−3 ステレオタイプから擬似イベント


 1920年代にリップマンが指摘したイメジの問題とは対称的に、その後、メディアがよりマスか(大衆化)し、よりマルチメディア化(媒体の増加)していった。マスメディア化と伴に、メディアの構造が変化したことに気づいて警告を鳴らしたのが、ブーアスティンであった。ブーアスティンは、1920年代以前からの急速なメディア技術の発展を複製技術革命(グラフィック革命)と名づけた。複製技術とは、「あらゆるものを実物そっくりのイメジに作りあげる能力」であり、この能力と供に、リップマンが危惧した「人工的な事件・出来事の製造」が1920年代以降に、次第に行われてくるようになった。これをブーアスティンは、「擬似イベント」と定義づけ、それをリップマンのいうステレオタイプと区別した。註7
 リップマンのステレオタイプは、経験を人為的に単純化するとし、ブーアスティンの擬似イベントは、経験を人為的に複雑化するとした。註8つまり、ステレオタイプが情報を受け取る際に、イメジを操作して情報を単純化するのに対して、擬似イベントはむしろ、イメジを操作して情報を理解しやすく、複雑化する点に関して異なっている。両者は、イメジの操作能力という点では同じであるが、前者が操作される側のイメジ操作能力であるとすれば、後者は操作する側のイメジ操作能力である。しかし、ブーアスティンは、ステレオタイプは擬似イベントの一例であるという。註9なぜなら、操作する側が操作される側のイメジ操作能力(ステレオタイプ形成能力)を、擬似イベントの期待と複雑化のために用いるからである。つまり、本来ならば、操作される側(情報の受信者)が形成するはずのイメジ(ステレオタイプ)を、操作する側(情報の発信者)が、既に多数用意し、擬似イベント(多数のステレオタイプ)として作りあげることによって、操作される側は、イメジ形成の手間がはぶけ、容易理解できるような気を持たされ、複雑ではあるが、理解しやすいだけに期待と興味をもたされるのである。
 そして、「世論は、今や合成されたもの、本当らしいもの、受動的なもの、生き生きとしたもの、具体的なもの、単純化されたもの、そしてあいまいなものになり、報道するという目的のために作り出された一種の擬似イベントになった」註10というブーアスティンの言葉がこれを端的に述べている。

2−4 理想による思考からイメジ的思考へ


 前節で見たとおり、我々は擬似イベントを多く作りだそうとするようになり、イメジで事件・出来事を作り出そうと思考するようになった。なぜなら、事物の世界における擬似イベントが価値の世界におけるイメジであり、2つは性質上同じのものだからである。註11イメジによって思考することによって既存の思考する方法を用いなくなっていった。ブーアスティンは、これを理想による思考とイメジ的思考とに分けている。
 理想とは、合成されるものではなく、神・伝統・歴史によって形作られたものであり、既に存在しているものであってそれに対して人間が奉仕するものである。それと対比させ、イメジとは、人為的に合成されて作られたものであり、人間が手段として用いるものである。このようにブーアスティンは定義づけ、理想による思考を複製技術革命前の思考であり、イメジ的思考とは、複製技術革命後の思考であるとした。註12我々は、事物の世界では擬似イベントを、価値の世界ではイメジ(擬似理想)をイメジ的思考で生み出すことによって、我々の取り巻く物質と精神的世界をイメジで満たし、現実を覆い隠しイメジのみで囲まれる世界、つまり、イメジの世界に我々を置くようになる。周りの環境世界がイメジになることによって、イメジは自己実現でき、操作可能であるがゆえに我々はその世界を求めるようになる。我々はイメジの世界に生きる。このようにして1920年代以降の我々の思考は、マスメディアによって支配されていくようになった。

第三章 大衆と戦争とエネルギー


3−1 大衆化の時代的流れ


 前節では、大衆化現象を思考の危機という点から、マスメディアという主に支配する側から眺めたが、今度は逆に大衆という支配される側に焦点を当てて眺めていきたい。なぜなら、もし大衆側に支配されうる需要がなければ、マスメディア側が支配するという供給もなかったはずだからである。
 これまで見てきたように、19世紀半ばのパリを象徴的に、本来ならば、貴族などの少数者のみが保持することができる物が大衆によって保持されるようになってきた。つまり、これは、階級などの多数者にとって制限されていたものが、見かけ上ではあるが、取り払われつつある現象であった。これは現代的な意味での大衆の出現の前ぶれであったが、その後の人口増加、複製技術革命や科学技術の発達によって19世紀とは比べ物にならないほど我々の目には視覚的にモノが増加していった。前節で述べたように特に1920年代以降、我々が取得するモノに関する情報の量も増え、また、それまで労働価値を帯びたさまざまな物が、一つの百貨店、デパートなどに集まることによって質の面において、均質化したモノとなってくる時期であった。それを消費する大衆は、モノが均質化していくだけにそれに応じて、その大衆自身も質的に均質化していく。これらの影響を受けた大衆が、次第に現代的な意味での大衆へと変化していく側面を見せてきた時期であった。このような時代的流れをふまえ、大衆とはどのようなものであり、どのように大衆が生まれたのかをオルテガを考察しながら眺めていく。

3−2 自己操作による大衆化


 オルテガが持っていた問題意識は、大衆の出現と、その大衆が持つ傲慢さにあった。オルテガは、社会の中で人間を区分する時に、少数者と大衆とに分け、群衆を量的・視覚的と捉えたのに対して、大衆を質的に捉え、大衆を質的な平均人であると定義づけた。大衆の特徴は、制限されたもの(運命、自由、階級など)に対して傲慢であり、均質性を作り出し、それに対して満足感を覚えることであった。オルテガは、制限されたものに対して傲慢であった大衆を「大衆は結局、自分自身に対して反逆している」とその傲慢さを指摘した。註13これはどのように解釈されるべきであろうか。大衆は、産業革命後の人口増加と複製技術などによるメディアの発達などによって、生み出され、支配される側であると考えられてきた。しかし、実際はそうではない。
 技術とは、ある時間的・空間的に拘束された世界観である。註14技術をこのように考えるのであれば、複製技術を生み出しつつあった段階で大衆の思考には、イメジ的思考に基づく世界観がもう既に根付いていたといえる。そうであるならば、大衆は、操作されることによって生み出されたのではなく、マスメディアによって自分達が支配されるように、いわば自己操作をすることによって、自分達(大衆)を生み出したのである。なぜなら、マスメディアの存在が、イメジ的思考に安定をもたらすからである。理想による思考によって生み出される理想は、絶対的で既存の作られたものであるがゆえに、有限であり安定しているが、イメジ的思考によって生み出されたイメジは、相対的で自己実現的に作るものであるがゆえに、無限であり不安定である。マスメディアは、イメジ的思考にアイデンティティーと根拠を与えるために必要であった。

3−3 考え方のコペルニクス的転換


 このように考えるであれば、ファシズム、ナチス、日本の天皇崇拝などの大衆操作によって第二次世界大戦が起こったという言説は、見直す必要があるし、それによる戦争責任問題ももう一度考えられるべきである。大衆は、自分達の世界観を纏め上げるマスメディアを作りあげ、逆に、それをヒットラーなどに用いられ、操作されることによって戦争へと参加した。いわば、大衆は、表面的には大衆操作という操作されるという名目に隠れ、構造的には、自己操作によって戦争へと参加した。しかし、なぜ、大衆は、自己操作までして戦争へと参加したのであろうか。「大衆操作にて戦争はひきおこされた」という考察は、戦争をひきおこす要因を説明する上では足り得る根拠であるが、自己操作までして戦争をひきおこす根本的な原因を説明する上では、不足である。果たして大衆は意図的に、戦争という消費を起こそうと考えて起こしたのであろうか。いやむしろより人間という生物的な要因が絡んでいたのではないか。このような観点から、戦争を過剰な消費として捉え、なぜ起こったのかではなく、なぜ、起こさなければならなかったかという次元にまで問題を深める必要性に気づくであろう。あの劇的な戦争へと人間が駆り立てられる何かしらのエネルギーが、生物学的にあったに違いない。このような観点から、バタイユ問題意識と消費概念に焦点を当てていく。

3−4 戦争とエネルギー


 バタイユは、太陽エネルギーを「生命を過剰に発展させる根源」とし、人間を含むあらゆる生命体は、エネルギーの過剰摂取によって存続しているとした。そして、人間にとって必要なのは、生産によってエネルギーを増幅する、生産的消費ではなく、それを消尽する非生産的消費が必要であると説いた。註15なぜなら、太陽エネルギーは、一方的にエネルギー(富)を分配するのみで我々のエネルギーを受け取らないからである。そして、彼は、近代経済の生産によるエネルギーをいかに増幅させるかという人間の個別的な観点である、「限定された経済」の考え方ではなく、エネルギー(富)をいかに分配するかというよりエコロジー的な普遍的な観点である、「普遍経済」の考え方に目を向けるように促した。
 バタイユは、上記の問題意識を基に、近代経済に関しての批判的な立場をとり、二度の戦争は必然的であるとした。彼は、技術を「生命が可能な範囲内で行う基本的成長運動を拡張すること」であるとし、産業革命後の技術と労働によって、飛躍的に増加した非生命体(機会)の力が、利用可能なエネルギー資源(富)を増幅させ、生命体(人間)の総量を増やしたと考えた。註16その根拠は、1815年から1914年までの人口増加を見れば明らかであり、また人口と産業施設との数量的関係の中にもそのような根拠が見受けられる。しかし、その後、原材料の供給源と新たな市場を確保するための植民地分配は、20世紀初めに終わりを遂げた。つまり、この時既に、地球の表面における人間が活動できる空間は、限界に達していたのである。人間の活動空間は、拡張すればするほど、拡張した空間におけるエネルギー量の分だけ、より多くの太陽光線のエネルギーを受け取る。註17人間は地球の空間をすべて支配したために、地球のエネルギーをすべて受け取ることとなった。この過剰なエネルギーは最初、成長に使われたが、あまりに過剰なゆえに溢れ出し、飽和状態となった。溢れ出したエネルギーは、浪費するしかない。一般的に、自然の奢侈形態(浪費形態)は、食、死、有性生殖の三つであり、人間の活動も生命のこのような活動と同じである。註18そして、この自然の三つの奢侈形態を過剰に表したのが、戦争であった。そして過剰エネルギーを浪費するために、戦争は起こらざるをえなかった。
 まず、「有性生殖」に関してだが、第一次、第二次世界大戦まで、人間は、技術によって得た過剰なエネルギーを、子供を産み増やす形で分け与えていく。前節で述べたとおり、これは技術と人口増加の割合を見れば明らかである。この浪費は、子供にエネルギーを分け与えるという形をとる。次に、「食」に関してだが、これは俗にいう、「共食い」に他ならない。人間の活動空間が限界に達し、その確保のために同じ種同士で殺しあう。それによって人間の活動空間の可能性を広げようとする。同じ種同士を殺し、エネルギーを受け取る生命体が死ぬことによってその活動空間から得られるエネルギーの可能性が増加する。最後に、「死」である。「有性生殖」は、時間的にエネルギーを浪費するのに対し、「食」は、空間的にエネルギーを浪費する。そしてこの「死」は、時間的・空間的にエネルギーを浪費する。「食」と「死」はセットであり、生命体が時間的・空間的に居なくなることによって受け取るエネルギー自体が消滅する。以上、戦争を三つの側面から眺めてきたが、これを大衆と大衆操作との関係で考えるとより現実的になる。

3−5 戦争の必然性


 人間は産業革命後の技術と労働によって、活動空間を「有性生殖」と伴に幾何学的に広めてきた結果、20世紀初めにその限界にぶちあったった。活動空間を制限された人間は、それを広げることができなくなり、それまで太陽から受け取っていたエネルギーを浪費できなくなる。エネルギーが飽和状態になることによって、エネルギーは、第一次世界大戦(「食」と「死」)という形で、浪費された。その後、1920年代のマスメディアの多様化によって、人間はイメジ的思考を行うようになり、活動空間を現実の地球の地表から、イメジの地球の地表へと広げた。人間は、地球における活動空間の有限さをイメジによって覆い隠すことによって、活動空間を無限のものとして考え始めた。イメジに基づいて活動空間を広げる人間は、大衆(イメジ的思考による人間)と呼ばれ、限界であるはずの活動空間をもう一度、広めようとした。つまり、本来ならば、有限なる活動空間を、無限であると勘違いした大衆によって、そのエネルギーの奪い合いが始まったのである。大衆は、第一次世界大戦の教訓を忘れ、表面的にはマスメディアに操作されている形で、構造的には、自己操作によって活動空間を広げ、エネルギーを奪いあった。その結果、第一次世界大戦と比較できないほどの「食」と「死」という形で、エネルギーは過剰に浪費された。
 以上が戦争に関する考察であるが、上記のことからも戦争は、なぜ起こったかではなく、なぜ起こらねばならなかったのかという段階まで考えなくてはならない。そして消費の定義ももう一度見直さなければならない。なぜなら、今まで見てきたものは、消費を促す要素(要因)は何かということに関してであったが、消費の定義とその性質については詳細に述べてこなかったからである。そして伝統社会と近代、いや現代における消費とはどのようなものであるかを考察することによって、二度の世界大戦という消費の時代的位置付けと其の性質を知ることができるであろう。それをバタイユの消費概念をベースに、ボードリヤールと比較しながら伝統社会から近代への消費概念の変化を見ていく。

第四章 伝統社会における消費


4−1 非生産的消費としての消尽


 これまで、バタイユの問題意識と観点から戦争について論じてきたが、今度は、「消尽」という彼の消費概念をより詳細に見ていきたい。バタイユは、消費を「生産的消費」と「非生産的消費」の2つに分け、前者を「生命維持および活動の継続のために必要な最小限の品物の使用」とし後者を「奢侈、葬儀、戦争、祭典、豪華な記念碑、遊戯、見世物、芸術、倒錯的性行為などの原始的条件のもとでは、それ自らのうちに目的を持つ行為」とした。註19つまり、前者は、目的性や有用性を生産活動においているのに対し、後者は、有用性を持たず、目的性は消費すること自体にあるとし両者を区別した。ここで重要なのが、バタイユの消費(消尽)の定義は、後者の「非生産的消費」でしかない。なぜなら、前節で見たとおり、バタイユは、過剰エネルギーの消尽こそ現代的な意味における消費であると考えているからである。しかもこの消尽は、生産活動のサイクルのために動くのではなく、それ自身のために、消尽のために消尽するのである。彼はこれをアステカ社会の物々交換とポトラッチに見出している。

4−2 古典経済学の物々交換概念と伝統社会における交換概念の相違


 古典経済学における物々交換とは、等価値のものをただ単に交換するだけであるとされてきたが、バタイユが原始社会に見出す物々交換とは、生産のサイクルのための物々交換ではなく、より損失と破壊に基礎をおいた非生産的なサイクルの物々交換であった。それはポトラッチの例を挙げればより明確になる。ポトラッチとは、北アメリカの北西海岸先住民の社会で、その社会の成員が身分変化―成人式、婚礼、葬儀―の時に行う習俗である。それは、社会的威信や身分などの獲得のために行われ、たいてい、首長からの競争者に、贈物を贈与・破壊する饗宴の習俗である。そしてその競争者は自分の威信をかけて返礼をするのである。註20
 例えば、今ここに、AとBというある同じ社会内の成員が二人居たとする。AはBに対して何か贈物を挑戦的に、出し惜しみ無く贈与する。BはAから受け取った贈物に対して、屈辱的かつ返さなければならないという「負い目」を感じる。そしてBはAに対して、屈辱と債務感をぬぐいさるために、より価値ある贈物を贈る。それによってBはAより勝るという社会的威信、身分を獲得する。さらに、ポトラッチの形態は、贈与だけではなく、破壊もありうる。ポトラッチを行う方法は、「贈与」の場合と同じであるが、破壊する物の対象は、破壊する物を見せる相手(受贈者)の神話的先祖にささげられる。註21この破壊する物はさまざまであり、奴隷などのその当人の価値観に応じて決められる。つまり、両者がより価値あると判断するものを破壊しあう。この「贈与、破壊」のポトラッチの形態は、古典経済学の物々交換の考えとはほど遠いものであり、生産のサイクルのための物々交換ではなく、それから抜け出すための俗習である。それは、非生産的消費、つまり、消尽である。

4−3 供犠とコミュ二オン(聖体拝領)


  次にポトラッチとは違った観点からアステカ族の供犠に関して眺めていく。供儀とは、神に生贄などをささげること、もしくは神と人との関係を成立せしめる宗教的儀礼であった。ここで、バタイユはアステカ族の例をあげている。アステカ族においては、太陽神が神殿で祭られ、それに対して生贄をささげる。神官はピラミッドの頂で生贄を石の祭壇の上に横たえ、生贄は黒曜石の短刀で胸を突き刺され、脈打っている心臓が取り出され、太陽に掲げられる。生贄は主に、戦争の捕虜(奴隷)などであり、その残った体などは祭儀の間に人々に食われるものであった。ここで需要なのは、アステカ人(主人)と戦争の捕虜(奴隷)との心的関係である。アステカ人は戦争で捕虜(奴隷)を連れてくることによって、その奴隷の主人となり、奴隷を人間ではなくモノとして扱うようになる。そして今度は、奴隷をモノとして扱うことによって、逆に主人であるアステカ人は、自分自身をもモノに還元する。つまり、奴隷と主人が同じモノの次元に入るのである。註22
    これに対して、アステカ人はモノの次元から脱連関するために、「供犠」を行った。註23つまり、供犠とは、このモノの次元(事物の世界、孤独的立場の世界、主体と客体の世界)から脱連関し、モノの次元ではない神的な次元(聖なる世界、内的世界)へと入るための宗教的儀礼であり、媒体である。供犠の中で、主人は奴隷(生贄)を血と肉を食べること、つまり、奴隷の聖体拝領することによってモノの次元から、自分自身を解放し、神的な次元へと導くのである。
 ここまで来て次のことが言える。すなわち、モノの次元とは、生産のサイクルのことであり、供犠という非生産的消費、消尽をすることによってこのサイクルから抜け出し、非生産的サイクルへと入るのである。そして、この点においてポトラッチと供犠は一致する。

4−4 消尽を媒体とした共同体


 最後に、ポトラッチと供儀によって導き出される消費(消尽)の役割を明確にしておきたい。先ほど見たとおり、ポトラッチと供儀の共通点は、消尽することであった。そしてこの消尽は2つの意味で必要であった。
 一つは、生産的なサイクルから非生産的なサイクルへ抜け出すことによって、生産的な思考から非生産的な思考へと思考を転換させるために必要であった。非生産的な思考をさせることによって、過剰なエネルギーを無駄に蓄積する生産活動とその生産活動によって蓄積させるエネルギーの飽和状態を止め、防ぐ役割を果たしていた。二つ目は、破壊を聖なるもの(神、先祖など)にささげることによって、現実のモノの次元から抜け出し、神的な次元(聖なる世界、内的世界)へと入るために必要であった。神的な世界に入ることによって、我々は神と対話、つまり、神と交感(コムニカニオン)することができる。神と交感することによって初めて、我々は現実のモノの次元から抜け出せるようになる。
 この2つに共通して言えることは、消尽とは、人と人、人と自然との共生の崩壊を防ぐ契機として、エコロジー的な観点から言えば、生態系を守る契機として存在していた。すなわち、伝統社会では、消費(消尽)は共同体を守る契機であった。

第5章 現代における消費


5−1 記号と思考へのマスメディアの介入


 前節ではバタイユによる伝統社会における消費概念を見てきたが、次に近現代における消費概念をボードリヤールとともに見ていきたい。思考が、理想による思考からイメジ的思考に取って変わる1920年代から次第に我々の思考は、現実をイメジによって覆い隠すようになってくる。ボードリヤールは、このブーアスティンが述べたイメジと現実との関係を発展させて、記号の両義性からこの状況を説明している。記号の両義性とは、「記号を補えるために何かを浮かび上がらせることであり、他方、否定し、抑圧するために何かを呼び起こすことである。」註24とし、記号はあるものを浮かび上がらせ、強調し、見えやすくする反面、見えやすくするために、逆に抑えられ、見えにくくされるものがあるという性質を保持する。現実とイメジの例をあげれば、記号はイメジを浮かび上がらせ、現実を抑えつける。
 この記号の両義性からマスメディアを眺めると、マスメディアは、イメジの記号をメッセージに載せて我々に押し付ける技術的機関である。現実の世界すべてを均質なイメジの記号にし、それをメッセージとして押し付けてくる。つまり、現実のすべてのものが覆い隠され、イメジを浮かび上がらせ、それを同語反復的にメッセージとして押し付ける。これを行うことによって我々の価値基準、道徳観等を構造的に変化させ、イメジの記号を押し付け、イメジ的思考へと我々を促す。註25このようにイメジの記号によって我々が支配されることによって、伝統社会における消費の媒体としての象徴的媒体が機能しなくなってくると伴に、むしろマスメディアという技術的媒体がこれに取って代わってくる。

5−2 贈与システムから記号のシステムへ


 伝統社会における消費は、ポトラッチや供儀に見られる贈与システムにおいて象徴的媒体によって行われていた。しかし、その媒体が技術的媒体(マスメディア)へと変化することによって、消費は現代的な意味を帯びるようになる。技術的媒体(マスメディア)は、記号によるイメジ的思考を促す。それによって我々の思考は、理想による思考からイメジ的思考に変化し、象徴的媒体(理想)として機能していた神、先祖、宗教的儀式などはイメジの記号として変化した。つまり、象徴的媒体は、それ自体が記号化することによって、一つのイメジとなった。それまで、象徴的媒体は、絶対的で既存の作られたものであるがゆえに、有限であり安定しているが、技術的媒体であるイメジは、相対的で自己実現的に作るものであるがゆえに、無限であり不安定である。ゆえに、消費の対象が違えば、消費の性質自体も変化する。
 ここではポトラッチの贈与システムを例にあげ、伝統社会から近現代における消費概念の変化を具体的にみてみる。ポトラッチは、社会的威信を得るための消費であり、その対象は、受贈者の神話的先祖であった。いわば、社会的威信は、受贈者の社会的身分が定まっていることによって得られ、消費の対象が受贈者の神話的先祖であることが定まっているゆえに、消費を有限的にしていた。しかし、複雑化した現代では、社会的威信(社会的差異)は、不安定であり、消費の対象は、相対的なイメジであるがゆえに不安定で、無限に作られる。だが、技術的媒体であるマスメディアが、この二つの不安定さを社会的に他者との差異を表示するイメジ(記号)を用意することによって取り払う。マスメディアは、消費の対象であるイメジを社会的に位置付けることによって安定さを出し、それと伴に、そのイメジに対して消費すること自体が他者との差異を示すので、我々はその社会的威信(社会的差異)を得るために消費する。しかし、本来、消費対象も社会的威信もすべてマスメディアによるイメジであるがゆえに、操作可能で、無限に作られる。これによって我々は無限に消費するようになる。現代では、ポトラッチの贈与システム自体が、記号のシステムに取って代わった。現代においてポトラッチは、衝動的な消費(衝動買い)としての記号となった。註26これが現代における消費のシステムである。

5−3 交感(コム二カシオン)から交換(コミュニケーション)へ


 伝統社会では、消費は二つの意味で必要であった。一つは、生産的なサイクルから非生産的なサイクルへ抜け出し、思考を非生産的なサイクルへと向けることによって、生産活動で蓄積されるエネルギーが飽和状態になることを防ぐためであった。二つ目は、モノの次元から神的な次元に入ることによって、神と交感(コミュニカシオン)し、対話するために必要であった。そして、伝統社会における消費とは共同体を守る契機であった。
 現代社会では、消費の媒体が、象徴的媒体から技術的媒体へと変化することによって、上記の消費の二つの役割は全く変化する。一つ目の役割において、生産的なサイクルから抜け出すための消費は、マスメディアに作られた差異を表示する記号(イメジ)によって無限に行われ、逆に生産サイクルを加速させる。加速させることによって、思考をより生産的な方向へと向ける。生産的な思考によって生産活動が加速され、エネルギーはより多く蓄積され飽和状態に陥る。二つ目においては、消費の媒体が、象徴的媒体から技術的媒体に変化することで、神的な次元は、イメジの次元になり、神はイメジへと変わり、神的な交感(コミュニカシオン)と対話は、イメジとの対話である記号交換(コミュニケーション)となった。そして、消費は、共同体を守る契機ではなく、むしろ崩壊させる契機であった。つまり、現代における消費とは共同体を崩壊させる契機である。

5−4 太陽から受けた消尽の義務


 我々は太陽のエネルギーを受け取ることによって余剰を生み出し、発展を遂げてきた。太陽は一つであり、光を照らす。光を照らすことによって我々は存在する。光が無ければ、我々は存在しない。つまり、太陽は我々の存在を保証する。我々は太陽に風土的規定されている。風土の中で絶対なるものは太陽である。我々は太陽によって自分を見出している。そのような意味で、太陽から受けるエネルギーを消尽することが、我々の義務であり、それを象徴的媒体によって行わなければならない。象徴的媒体を払いのけるイメジ的思考による消費でなく、理想的思考による消費(消尽)が我々の義務である。我々は、神と交感(コミュニカシオン)し、対話することが必要である。決してイメジとの対話である記号交換(コミュニケーション)をしてはいけない。なぜなら、コミュニケーションは言語を交換するが、コムカシオンは、心(感情)を交感するからである。

結語 生命の遍く沸騰の中で


 20世紀最大の二度にわたる戦争は、共同体を守る契機としての消費(消尽)と、共同体を崩壊させる契機としての消費が混ざり合った消費であった。なぜなら、一方で、過剰なエネルギーの飽和状態によって消費(消尽)しなければならず、他方、その消費の手段は象徴的媒体から技術的媒体へと変化したからである。そして、我々は初めて消費を語ることができる社会に生きている。なぜなら、我々は消費という観念を持つからであり、それのみが消費の唯一の客観的現実だからである。註27つまり、消費という観念を消費しているのである。だから、消費は一つの神話なのだ。消費は観念であるがゆえに、消費の観念自体を定義づけるのではなく、志向しなければならない。「時間の中での性行為のあり方は、空間の中での虎のあり方に等しい」註28これが示すように、人間も虎も消尽する生物である。太陽から受けたエネルギーを消尽することが我々の義務である。それをすることによってのみ聖なるものとの対話をすることができる。聖なるものと対話をし、交換(コムニカシオン)することによってのみ、我々は存在している。




引用

註1 江川波夫、山本達也、林健太郎、成瀬治「詳説 世界史」山川出版社p222、223参照[本文]
註2 江川波夫、山本達也、林健太郎、成瀬治「小説 世界史」p232参照[本文]
註3 「新詳世界史図説」浜島書店p154参照[本文]
註4 鎌田康男「消費社会のヨーロッパ史的位置付け」参照[本文]
註5 W.リップマン「世論(上)」(掛川トミ子訳)岩波文庫p28−31、p130参照[本文]
註6 W.リップマン「世論(上)」p47参照[本文]
註7 ダニエルJ.ブーアスティン「幻影の時代―マスコミが製造する事実―」現代社会科学行書p17−21[本文]
註8 ダニエルJ.ブーアスティン「幻影の時代」p48[本文]
註9 ダニエルJ.ブーアスティン「幻影の時代」p46[本文]
註10 ダニエルJ.ブーアスティン「幻影の時代」p244[本文]
註11 ダニエルJ.ブーアスティン「幻影の時代」p195[本文]
註12 ダニエルJ.ブーアスティン「幻影の時代」p208[本文]
註13 オルテガ「大衆の反逆」(寺田和夫訳)世界の名著、中央公論社p389−392、p476[本文]
註14 ハイデッガー「技術への問い」(辻村公一訳)p29[本文]
註15 G.バタイユ「呪われた部分」(生田耕作訳)二見書房p24L16−p25L5、p35L7−8[本文]
註16 G.バタイユ「呪われた部分」p46L8−114[本文]
註17 G.バタイユ「呪われた部分」p41[本文]
註18 G.バタイユ「呪われた部分」p42[本文]
註19 G.バタイユ「呪われた部分」p267[本文]
註20 G.バタイユ「呪われた部分」p89L12−L16[本文]
註21 G.バタイユ「呪われた部分」p90L3−12[本文]
註22 G.バタイユ「呪われた部分」p63−67[本文]
註23 G.バタイユ「呪われた部分」p72[本文]
註24 ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」(今村仁司、塚原史訳)紀伊国屋書店p24[本文]
註25 ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」p177[本文]
註26 ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」p44[本文]
註27 ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」p306[本文]
註28 G.バタイユ「呪われた部分」p15[本文]


参考文献:

江川波夫、山本達也、林健太郎、成瀬治「詳説 世界史」山川出版社
「新詳世界史図説」浜島書店
鎌田康男「消費社会のヨーロッパ史的位置付け」
W.リップマン「世論(上)」(掛川トミ子訳)岩波文庫
ダニエルJ.ブーアスティン「幻影の時代―マスコミが製造する事実―」(星野都美・後藤和彦訳)現代社会科学行書
オルテガ「大衆の反逆」(寺田和夫訳)世界の名著、中央公論社
ハイデッガー「技術への問い」(辻孝一訳)
G.バタイユ「呪われた部分」(生田耕作訳)二見書房
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」(今村仁司、塚原史訳)紀伊国屋書店



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