ピーター・シンガー 『動物の解放』『実践の倫理』

担当:大木竜児

《 概 要 》

「動物は何故解放されなければならないのか?」という問いを省みると、純粋に動物愛護心を助長するようにもとれるが、現状の不平等を自覚するための人間自身の反省を促すことが暗に含まれている。動物実験の残酷な様相や、食肉用の家畜に対する不当な扱いを描きつつも、ピーター・シンガーの論理展開は至って冷静で、前者のような感情に基づく立場は極力抑制されている。そのことは、動物を愛するという理由からよりも、動物には人間と同じく苦痛や快楽を感じる能力を持ち、だから考慮に入れられるべき「利益」があるからだという根拠によって、彼の主旨が支えらているところに見ることができるだろう(1)。つまり、何かしら客観的な他者評価基準として「利益」という概念が用いられているのだ。

苦痛/快楽の感覚を持つものは、苦痛を軽減したり快楽を増大させるという「利益」を求める(2)。もちろん、動物が「利益」の概念を持つとは言えないだろうから、「利益」という考え方は人間が一方的に動物を解釈する方法である。人間が動物に「権利」を与えるという方法と似通った部分がある。このことは一方では、人間は動物という大きな類の中の一つの種に過ぎないことを意味するし、他方、「利益」概念を持つ人間は動物の「利益」を配慮することが義務化される。このことで、シンガーの持つ人間の脱中心化の戦略が浮き彫りになるのではないか。彼によると、他者を理解する媒介は基本的に「利益」である。他者に利益があると言うことにより、自己の利益のみを考えてばかりはいられない。

これと同じくらい重要なのが、個人或いは個体として評価されなければならないことである(3)。黒人であるから、女性であるからといった「〜に属する」ということのみで、人が評価されることは確かに偏見を生むだろう。個人として評価するということが意味しているのは、あらゆる条件付けを撤廃することによって、制度的に管理しやすい名の無い個人を創り出すことではない。むしろ、おそらく一種の思考実験として提示されているに過ぎないだろう(4)。つまり、社会的地位や人種といった属性を一旦否定することによって、違った評価をすることができるのではないかという提示にすぎないということである。痛みを感じる個だからこそ、「利益」もまた存在に対する最低限の評価基準となりうるのである。

シンガーは、道徳を持つことが人間の必要十分条件であるとは言っていない。むしろ、そのように道徳に従って生きることを要求するように解釈できるカントの倫理観や、ロールズの契約論を攻撃する(5)。極端な解釈で言うと、これらの道徳理解は道徳的人格でなければ、人間社会で生きてゆけないことを意味するからである(図で確認)。彼の功利主義的考え方は、基本的に個人の欲求を自然的な関心(利益)として認める。この個人的欲求が正当化される状態を「前−倫理的段階」と呼び、それに対する共同性タームとして「普遍的見地」を設ける(6)。「普遍的見地」とは、自己の利益のみが配慮に入れられるべきではなく、他者の利益を配慮しなければならない状態である。つまり、道徳的に振る舞うべき状態と、そうでない状態を分けて考えるべきなのだ。

このことは、こう考えられないだろうか。前−倫理的段階において、人間は、自己の快楽を追求することを重要視するが、「普遍的見地」においては、他者の苦痛を軽減することを考慮に入れるべきであると。彼は、動物を人間よりも優位に立たせることが目的なのではなく、動物が人間と平等に扱われることを配慮するべきだと言っている(7)。このことを好意的に読み替えると、人間の快楽を追求する態度を非難し禁欲を進める主張だと言えるのではないだろうか。この点に関して、より戦略的な読み方を《別の視点からの考察》の項目で展開してみたい。

《 問 題 点 》

・対象化の問題

動物の解放を促すことによって、人間中心主義を脱却する目論見があることは明らかだろう。上で見てきた通り、動物解放の論拠となるのは、動物が利益を持つということである。ところで、シンガー自身は「権利」という言葉をほとんど使っていない。人間以外の存在の価値を認めるときに、環境倫理ではよく「権利」という言葉が使われる(8)。権利という言葉を使うことによって、動物や植物などが生きる主体であることを表現し、人間がむやみにそれらの生命活動、自己実現といった営為を妨げることを禁止する。権利を与えることによって、それら自然物を人格化することができるのだ。そこには、人格というレベルにそれらを祭り上げることで、人は思いやりを発揮するはずだという戦略がある。シンガーは確かに「権利」という言葉を使っていないし、あえて避けていたと取れるかもしれない。その一つの理由として考えられるのは、主体への感情移入を避けたためである。

だが、「利益」を認めることと「権利」を認めることには、人間という主体がそうすることには変わりがないのではないか。人間が中心的主体であることと、動物やその他の自然物が操作される対象であるという枠組みは同じなのである。環境破壊という問題が、人間が自然物を思いのままに操作できるという考えに基づいて為された結果であるとするならば、人間が「利益」や「権利」を与えるという行為は、下手をすれば環境破壊の構図と大差ない陳腐な解決策に陥ってしまう。

さらに問題なのは、利益を配慮しなければならない他者が増えるということは、それだけ考慮に入れるべき個人、あるいは個体が無数に増えてゆくことになる。もし、このことを信じ実行にうつすなら、我々は非常にたくさんの「個」の利益を考えなくてならないという恐ろしくハードワークなものになってしまう。

・同情の問題

「利益」概念は抽象的であり、感情とは切り離して考えられるべき客観的評価基準であると考えられる(9)。しかし、動物や社会的弱者の利益を考慮に入れることに見られる戦略と、彼らの苦痛を理解することの違いは一体何なのだろうか。 シンガーは、極力感情に訴えることを避けている。通常、感情・感覚としての特性が未分化なまま用いられるタームである「苦痛」も、感情としての側面を退け、利益を得るための必要条件という説明しか為されていない。また、弱者に対する平等への配慮は見せるが、同情というそぶりは見せない。

理由は二つ考えられる。一つは、動物が好きだとか、あの人を愛しているといった動機による他者への関わり方は、個人的欲求の領域を出ない。したがって、「普遍的見地」による道徳の実践においては効力を為さない。同様に、Aがかわいそうだという理由のみによる実践もまた、A以外の他者の利益を考慮に入れないならば、功利主義に反しそれは退けられる(10)。第二の理由は、「〜が好きだ/嫌いだ」、「〜がかわいそう」という感情の対象は制限を持たないことである。感覚器官を通して苦痛を感じる動物だからこそ「利益」を配慮することができるのであるが、その人の趣向で「木が好きだ」とか「石にも魂がある」などと言われては、彼の功利主義解釈がそれらに適用できなくなる。

「利益」とは、彼によれば人間にとっても動物にとっても普遍的に適用できる便利な色眼鏡である。感情による他者判断を極力退けることで、人間の禁欲、脱中心化を促す点で成功しているよう思える。しかし、「利益」を考慮に入れることのできる人間を選ぶという一種の契約論的様相を見せてはいないだろうか。人間は感情によって判断する側面を ―― 彼自身も「前ー倫理的段階」として認めているように ―― 否定することはできない。もし、仮に動物解放運動が成功し一切の肉食の根絶が達成されたとすると、そのとき人は肉食を嫌悪するといったナイーブな存在になっているかもしれない。

《別の視点からの考察》

さて、人間の対象の操作性に潜む一つの問題を提示してみたが、このことが本当に問題かどうかを明らかにすることは今のところ難しい。問題を問題として意識することが難しいからである。もし仮に人間の脱中心化が容易に解決できない問題であるとするならば、今のところ二つの解決方法が考えられる。一つは、徹底的に人間中心主義を否定し動物解放運動を進める方向である。二つ目には、人間の内省に求める方法である。前者の方法によれば、自己の犠牲をも覚悟して他者の利益を常に配慮するというボランティア精神を想定する。このことは、極めて実践的ではあるが、自己の活動の成果を評価するためには結局のところ、反省を避けて通れないだろう。後者の方法に従うことは、S.フレチェットの「世代間倫理」の持つ戦略に対応してくる(11)。それは、未来の世代がある/ないの議論によって我々は「〜すべきである」と主張するよりも、少なくとも我々にできることは、「〜しない」というものである。動物解放の考えに当てはめると、動物や自然に対する配慮によって人間が「〜する」ことよりも、少なくとも「〜しない」ということの方が環境への影響は少ないのではないかということになる。

シンガーの動物解放論を少々強引に解釈すると後者に近いのではないだろうか。動物の苦痛を軽減し、非肉食を進めることは、人間の快楽を追求する態度を何らかの形で犠牲にしなければならないことを意味する。産業化された社会において食肉は、狩猟によって生活を営む社会に比べると、明らかに嗜好食品であると彼は言っている(12)

 食肉は不必要な食品であり、自己の快楽を増大させる意味しか持たない。肉食における快楽増大を例に挙げることによって、欲求を作り出しそれを満たしてゆくことを良しとする現代社会の構造の問題点を明らかにしているとは考えられないだろうか。人間が自己の利益のみを追求する一方で、苦痛を味わい人間の快楽の犠牲になっている動物がいる。この不平等を是正するには、動物にも人間同様に快楽を求める権利を与えることがいいのだろうか。そうではなさそうである。シンガーは、動物が現在置かれている不平等な状況を改善すべきだとは言っているが、人間が快楽を求めるように動物にもそうさせるべきだとは言っていない(13)

彼の「利益」概念をこう考えるのはどうだろうか。つまり、「利益とは、苦痛を軽減することを意味する」と。もはや、この「利益」の中には快楽を求めるという意味は失われている(図で確認)。もし、このことを人間社会に当てはめると、快楽をいかに増大させるかではなく、苦痛をいかに軽減するかということに焦点が絞られる。よくよく考えてみると、欲求を次々と生み出し、それを満たす行為を繰り返してゆかなければならないことは苦痛そのものではないだろうか。現代において、欲求を満たすことが良しとされるのと対称的に、欲求が満たされないことによる苦や空虚さが際立つとともに、快楽そのものが刹那的であるとさえ言えてしまうように思える。


《 注 釈 》

*「 」は引用。

(1)「誰もが知っているように、人によっては自分の隣人とよりも自分の飼い猫との方がずっと親密な間柄である。道徳性を情愛に結びつける人々は、このような人が火事から隣人を救い出すより先に自分の飼い猫を救い出すことが正当であると認めるだろうか。また、この問いに対して正当だと答える覚悟のある人でも、「白人にとって他の白人との関係の方が黒人との関係よりずっと自然なものであるし、他の白人に対する情愛の方が大きい。だから、白人が他の白人の利益を黒人の利益以上に優先するのは全く正しい」と論ずる人種差別主義者と一緒にやってゆこうとまでは思わないに違いない。倫理の要求することは、個人的な関係や偏った情愛をなくしてしまうことではない。倫理が我々に求めているのは、行為にあたって、行為の影響を受ける人々の道徳上の要求を、そのような人々に対する我々の感情とは全く無関係に評価することである。」(『実践の倫理』P87)

「〈利益に対する平等な配慮〉の原理によれば、他人の利益を考慮しようとするさいには、その人が利益を持っているという特徴のみを考えるべきであって、その人が持っている能力とか他の特徴に左右されてはならない。」(『実践の倫理』P27)

「平等の原理をわれわれ自身の種を超えて適用するための議論は単純なものであって、〈利益に対する平等な配慮〉の原理がなんであるかをはっきり理解しさえすればよい。すでに見たように、この原理は次のことを意味している。つまり他の人々に対する我々の配慮は、それらの人々がどのような人々であるかとか、どのような能力を持っているかということに左右されてはならない(ただし正確に言えば、この配慮にしたがって我々が何を行わなければならないかは、我々の好意を受ける人々の持つ様々な性質に左右されよう。)まさにこの原理にもとづいて我々はこう言うことができる。「ある人々が我々と同じ人種の成員ではないからといって、この人々を搾取してもかまわないということにはならないし、同様にある人々が他の人々よりも知的ではないといことは、この人々の利益が無視されてもよいということを意味しない」と。しかしこの原理はさらに次のことも意味している。すなわちある存在が人類という種の成員ではないからといって、この存在を搾取してもかまわないということにはならないし、同様に他の動物が我々よりも知的ではないということは動物の利益が無視されてもよいということを意味するものではない。」(『実践の倫理』P64)

(2)「この文章の中でベンサムが指摘しているのは、〈苦しみを感じる能力こそが何らかの存在が平等な配慮を受ける権利を得られるようにするための必須の性質である〉ということである。苦しみを感じる能力 ―― より厳密に言えば、苦しみを感じ、かつ快楽または幸福を感じる能力、或いはそのどちらか一方を感じる能力 ―― は、言語能力や高等数学の能力のような他の性質とは違うのである。ある存在の利益が配慮されるべきかどうかを決定する「越え難い一線」を画そうとして、人々が間違った性質をたまたま選んでしまった、とベンサムは言っているのではない。何かを苦しんだり楽しんだりする能力は、そもそも利益を持つための不可欠の要件 ―― つまり利益を云々することが無意味にならないために先ず満たさなければならない条件 ―― である。路上で小学生に蹴飛ばされることは石の利益ではないなどというのは、無意味であろう。石は苦痛を感じることができないのだから、石に利益などはない。石に対して何をしようと、石の福祉にとって何の違いもないであろう。他方、苦しめられないということにマウスの利益が確かにあるのは、もし苦しめられればマウスは苦痛を感じるからである。」(『実践の倫理』P66)

(3)「ジェレミー・ベンサムは、『各人を一人と数え、誰のことも一人以上には数えない』という有名な公式をもって、平等の本質的基礎を表現している。言い換えれば、利害を持つすべての存在者の利害を配慮し、どの存在の利害も他の存在の同様な利害と等しく扱うべきだということである。」(『動物の解放』P186)

(4)◎思考実験という言葉は、実験室や装置を使った自然科学的な実験から想像していただきたい。自然科学的な実験においては、温度や湿度、圧力等といった条件を整えて行われるのだが、思考における実験とは、この場合個人には、社会的地位、人種、性別等の条件があると想定する。こういった条件付けが我々が普段持つ他者への評価に関与するとともに、偏見をも生み出すのではないだろうか。

(5)◎「人は、道徳そのもののために生きなければならないのか」という問いと、「なぜ道徳的に行為するのか」という問いは分けて考えなければならない。人間という存在を何らかの言葉で定義する際、「人間は道徳的存在である。」という結論が導き出されるケースが多分に見られる。この定義は一歩間違えれば、「人は道徳そのもののために生きなければならない」という風に、人間を閉じた集合範囲でしか見ることができないという状況に追い込む危険性がある。

「倫理の正当化の問題を考えてみると、倫理の契約理論には問題が多いことが分かる。明らかにこのような倫理の理論は、倫理の領域から人間以外の動物だけではなく、もっと多くのものを排除することになる。不治の知能障害者とは動物と同じく互恵的ではありえないから、このような人々も倫理の領域から排除されねばならない。」(『実践の倫理』P92)

「ロールズは、道徳的人格が人間の平等の基礎であると主張する。これは、彼が正義の問題を「契約論」的に扱おうとすることから出てくる見解である。契約論の伝統は、倫理を相互に有益な一種の同意であると考える。大まかに言えば、「私を殴るな、そうすれば私も君を殴りはしない」というわけである。したがって、自分が殴られていないということを評価し、それにしたがって自分が殴ることを抑制できる人だけが、倫理の領域にいることになる。」(『実践の倫理』P22)

「正しいことであるがゆえになされた隠れた動機のない行為だけに道徳的価値を認めるという傾向が我々にはある。だが、私の考えでは、この傾向が強まるにしたがって、倫理について我々が抱いている考えはそれだけ人を誤りへと導きやすい。このような態度が一般的に見られるのは理解できることであるし、また社会の観点からすれば望ましいことでもある。しかし、人々が倫理に対するこのような見解を受け入れ、それに導かれるままに、正しいことであるがゆえに正しいことをし、それ以上に深く理由を追求しないようになると、一種の信用詐欺の餌食になってしまうのである ―― もっともそれは意識的に犯されたものではないのであるが。

倫理のこのような解釈は正当化できないものである。本性で先に見た通り、倫理を合理的に正当化する議論が失敗したことから、これは予想されることである。我々の日常的な道徳意識は、義務であるがゆえに義務がなされる場合にしか道徳的価値を見出さない。西洋哲学の歴史の中でこのことをカント以上に強調した人はいない。だがカント自身は、合理的な正当化がなされなければ、このうような常識的な倫理の概念は「脳の妄想にすぎない」ことを知っていた。そして、事実は正にその通りなのである。我々が倫理の合理性のカント的な正当化を否定し ―― 一般的な形で、我々はこれを否定してきたのであるが ―― 、しかもカント的な倫理の概念を保持しようとするならば、倫理は支えを失って宙に浮いてしまう。それは閉じた体系になってしまう。つまり、第一前提 ―― 正しいことであるがゆえになされた行為のみが道徳的価値を持つ ―― が、この前提そのものを受け入れるための可能な正当化を一切排除してしまうために、この体系について問うことができなくなってしまうのである。このような見解に立てば、道徳は合理的な目的ではなくなり、礼儀作法とか、はじめに一切の飼い疑心を捨てるものにしか訪れなな宗教信仰のような、いわゆる自己正当化的な慣行と同じレベルのものになってしまう。」(『実践の倫理』P280)

(6)「私がこれを提言する理由はこうである。つまり〈倫理的判断が普遍的見地からなされなければならないこと〉を認めるなら〈私自身の利益は私の利益だからという理由だけでは他者の利益以上の値打ちはないということ〉を認めていることになる。こうして私自身の利益を配慮して欲しいという私のきわめて自然な関心は、倫理的に考える時には、他者の利益にまで拡張されねばならない。さて、私が可能な行為として二つのコースのあいだで決定を下そうとしているものとしよう ―― どんな例でもよいだろう。また倫理が全く欠けた状態で決定していて倫理的考察も何も知らないとしよう ―― 私は倫理以前の思考段階にいるといってもよい。私はどのようにして決心するだろうか。その場合でも関連するいとつのことは行為の可能なコースがどのように私の利益を左右すするかということであろう。じじつ、もし「利益(関心)」を広く定義して〈(他の欲求と両立するかぎり)人々の欲するものをなんであれ彼らの利益になるものとみなす〉という風にすれば、この前−倫理的段階では決定に関連しうるものはもっぱら自己自身の利益である。

次に私が倫理的に考え始めるものとしよう。その程度としては〈私自身の利益は、私自身の利益だからというだけで他者の利益以上の価値を持つわけではないこと〉を認めるだけでよい。私自身の利益のかわりに、今や私の決定によって左右される関係者全ての利益を考慮しなければならない。ここで私に要求されていることは、これらの利益をすべて比較考量し、関係者の利益を最大なものにしそうなコースの行為を探ることである。こうして私が選ばなければならない行為は、他のコースと比較考量した上で、関係者全てにとって最善の結果をもたらすコースである。これは功利主義の一形態である。」(『実践の倫理』P16)

(7)「平等の原理を苦しみを与えることに適用するのは、少なくとも理論的には容易である。痛みや苦しみは悪であり、人種や性や種に関わりなく、苦しんでいるものがあればそれが起こらないようにするか、少なくなるようにするべきである。」(『実践の倫理』P70)

(8)◎トム・レーガンは動物の権利を認めている。また、動物以外の自然物に権利を与える試みとして、ストーンの『樹木の当事者適格』の発表を参照。

(9)「ある存在が苦痛を感じるならば、その苦痛を配慮しないというのは道徳の立場からは許されない。平等の原理が要求するのは、どのような本性の存在であれ、その苦しみは、他のどんな存在に与えられる苦しみであれ、同様の苦しみ ―― おおよその比較ができる限りにおいてであるが ―― と等しく計算されるということである。もしある存在が苦しんだり、喜んだりリ幸福を感じたりできないとすれば、考慮に入れるべきものは何もない。まさにこの理由で、感覚を備えているかどうか、(感覚を備えているという言葉を苦痛を感じたり、喜びや幸福を感じる能力を言い表す、やや不正確な略語として便宜上用いる)ということが、利益を配慮すべき存在とそうでない存在とを分ける境界線としてただ一つ弁護できるものである。知性的であるとか理性的であるといった性質を境界線にするのは、恣意的で何の根拠もないことであろう。それなら、他の性質、たとえば肌の色を境界線に選んだって悪くないのだ。」(『実践の倫理』P66)

(10)「〈利益に対する平等な配慮〉という原理の本質的な点は、道徳的な考慮をするさい、我々が、自分の行動に影響される人々全員の同様の力に等しい重みをおくということにほかならない。つまり、ある可能な行為がXとYにのみ影響を与え、しかもYが得る利益よりもXのこうむる損害の方が大きいならば、その行為はしないほうがよい、ということである。〈利益に対する平等な配慮〉という原理を受け入れるかぎり、XよりもYのほうを気にかけているからといって ―― 損失が先に述べたような場合でも ―― その行為をするのがよいということは許されない。この原理は要するに次のようになる。利益とは、誰の利益であろうとも、利益である。」(『実践の倫理』P25)

(11)《フレチェットの世代間倫理》の発表参照。

(12)「動物はそれ自身として価値があるとすれば、我々が動物を食物として用いることには ―― とりわけ、動物の肉芽必需品ではなく贅沢品である場合には ―― 疑義が生じてくる。動物を殺して食べるか、さもなくば餓死せざるを得ない環境の中で生活しているエスキモーならば、自分たちの生存の方が、彼らが殺す動物の利益を凌駕していると主張しても、正当な主張として認められよう。我々の大部分のものはこのような仕方で自分たちの食物を弁護することはできない。産業化した社会の市民は動物の肉を食用にしなくても、適切な食物を簡単に手に入れることができる。医学的な証拠が圧倒的に示しているのは、健康や長寿のためには動物の肉は必要ではないということである。また、動物を食用にするのは効率的な食物生産の方法ではない。」(『実践の倫理』P72)

(13)「我々が動物に苦しみを与えるのをやめるのは、動物が影響を受けるほどには人間の利益は影響を受けない場合のみであるとしても、次のような領域で動物の扱いを根本的に改める必要に迫られることになるであろう。すなわち、食物、我々が用いている畜産の方法、様々な科学の分野での実験の手続き、野生生物およびこれを狩猟したり罠をかけたりすることや毛皮を着用することへの対応の仕方、サーカスやロデオや動物園といった娯楽的な分野である。結果として、膨大な量の苦しみが避けられることになるだろう。」(『実践の倫理』P70)


《参考文献》

シュレーダー=フレチェット編、京都生命倫理研究会訳「環境の倫理・上」晃洋書房(1993)
 −ピーター・シンガー著『動物の解放』

ピーター・シンガー著、山ノ内友三郎・塚崎智監訳『実践の倫理』昭和堂(1991)

<二次資料>

ピーター・シンガー著、 戸田清訳『動物の解放』技術と人間(1988)

『環境学が分かる』朝日新聞社(1994)

「環境思想の系譜2−環境思想と社会」東海大学出版社(1995)
 −トム・レーガン著『動物の権利の擁護論』