ディープエコロジー

担当:大頭一仁、井上亜華利

<< 概 要 >>

 ディープ・エコロジーという言葉は1973年、ノルウェーの哲学者アルネ・ネスによって提唱された(1)。そこでネスは、エコロジー運動を浅いもの(shallow ecology movement)と深いもの(deep ecology movement)に分けて、後者の重要性を説いた。それによると、シャロウ・エコロジーは環境問題の解決を政策や経済で解決する問題として捉えるが、対してディープ・エコロジーは今日の環境問題の原因を社会の構造のもつ前提そのものに求めること、そこから環境問題の対策も社会構造自体の変革によって図ろうという姿勢をもつ。この変革を引き起こしうるのが、個人の社会、自然に対する意識の変革である。ネスはそれを「制度の改革ではなく内面性の改革という長期的視野」であるという。内面性改革の規範としてネスは自己実現と生命中心的平等を中心に挙げる。

 近代社会の構造を理解し、そのよってたつところの根幹である前提自体を変えうるものとして捉える。ネスがこの視点を主張する根底には、現代の環境問題がまさに現代の社会システムによって産み出されたものであるから、その根を断つにはそのような社会システムに融合している人間の意識を変え、そこに実践が伴うことで社会システム自体を変えることができれば環境問題を産み出す基体はなくなるであろうという洞察がある。環境問題を産み出している社会構造としてネスは「支配構造」を挙げる。この構造を自然に対する人間の態度にあてはめると、人間が自然を利害対象としか見てこないままに搾取を発展させてきた関係を捉えることができる。また、この構造を反省することによって、支配構造が、環境問題として形にあらわれているものばかりではなく、人間間、民族間にある様々な問題の母体であり、諸々の政策にもかかわらず問題が常に存在発現する可能性が示唆される。このようなディープ・エコロジーはソーシャルエコロジーを批判する。ソーシャル・エコロジーのやっていることは現在の社会構造から必然的に導き出された環境問題を政策や生活方法の変革によって解決しようとするもので、そこには問題を産み出した真の原因に対しての反省がなく、したがって根本的な原因排除がなされないまま表面的な解決を繰り返していくだけであるとされる。

 社会の構造を支持するのはその中に生きる人間の行動である。現代ではその関係が転回して人間の行動は社会の構造に追従する傾向がある。ネスによるとそれはさらに発展して文化様式がテクノロジーに従う状態に私達はいる。現代の人間は、この社会がつちかってきた、人間を自然環境という関係性のネットワークを持った全体から分離させ、支配の目をもって環境を眺めるという構造にとらわれている。また、流行と宣伝(情報)に従い躍らされて大量消費社会から抜け出せない。ネスはこのような状態を嘆くとともに、そこに最終的に社会構造の変革を促すだろう人間の意識、行動の変革の可能性を見出す。

・自己実現

 「社会的にプログラムされた狭い自我あるいは社会的自我の感覚」を超越した自己の実現が、人間を大量消費、自然支配、流行追求といった状態から救い出す。ディープ・エコロジーにおける自己実現とは「独自のスピリチュアルで生物学的な人格を形成する」ことである。人間は自己の行動、「自分という存在全体が感じる最高の満足」を客観的に深く見つめて社会に支配されない自分自身の満足を達成するべきだとされる。つまりネスは近代文明の支配から逃れた人間はもっと質素な生活で真の満足を得ることができると提案する。ディープ・エコロジーの自己実現の特徴的なのは、人間は自己を深く見直すことによって「大いなる自己(有機的全体性)の中の自己」を体験し、他の生命態と一体感を得ることができるという主張である。現にある世界を存在論的に区分せず、人間と人間以外の存在の領域を分けないという意識が生まれる。これによって人間は自然と自分を同一視し、自然との支配−被支配関係から逃れられる。脱人間中心化である。自己実現とは現在の社会に感情を支配された状況から脱して、本来の自己のあり方を客観的に見つめなおす作業である。

・生命中心的平等

 ディープ・エコロジーのふたつめの規範である「生命中心的平等」の理念は自己の実現と密接に関連している。「この直観は、生物圏におけるあらゆるものが平等の生きる権利および、より大いなる自己を実現しつつ固有のかたちで発展し自己を実現する権利を有することの謂れである。」つまり生命中心的平等は人間が自分以外の自然の平等を軽視し、支配君臨しようとすることは、結局は人間自身の間において支配君臨の関係が支持されてしまい、自己実現が不可能になるのである。同じ理由からネスは多様性の尊重を主張する。 『ディープ・エコロジーにとって、地球という住みかにおける人間の位置を研究することは、我々自身を有機的全体の一部として捉えなおすことにつながる。現実に対する狭く物質主義的、化学的な理解を超えれば、現実のスピリチュアルな諸相と物質的な諸相は解け合う。支配的な世界観をリードする知識人は宗教を「単なる迷信」として捉え、禅仏教に見られるような古くからのスピリチュアルな実践や教えを本質的に主観的なものとみなしてきたが、ディープ・エコロジー的な意識の探求とは、活発な深い問いかけと瞑想的なプロセスや生き方を通してより客観的な意識および存在状態を探求することなのである。』というビル・デヴァル/ジョージ・セッションズの記述(2)はこの思想の根本的な態度を示している。

 上記のような意識の変革は、人間のあり方を見つめなおす過程で直観として得られるとされる。人間はその意識、考え方を現文明や社会から完全に脱却させることができるのである。社会、ひいてはそこにおける自己の在り方を疑うことで、現社会的規範に支配されない自己を見つけ出す作業を「客観的な」意識の探求であるという。ここで私達は、ディープ・エコロジーの特徴を、「個」(もしくは人間)の確立と環境も含めた全体の調和の統一、と捉えることができる。自分自身の満足を知ることと全体と自己との一体感を得ることで、人間は幸せを追求することと住み良い環境の中での人間種を持続するという両方をなし得る。

<< 本 論 >>

 ディープエコロジーという名称における「ディープ」の由来はすでに概要で述べたとおりである。しかし、ネスがディープエコロジーによって提唱した人間の基本的ニーズは、はたして本当に人間にとって基本的といっていいものなのであろうか?もしも、ネスの提唱する基本的ニーズが人間にとって基本的であるとすれば、どのような場合に基本的ニーズとなりうるのであろうか?ネスの基本的ニーズにたいする論拠は、概要に見られるようにネス自身の直観である。ネスのこの直観は「自分という存在全体が最高の満足を経験するのは、どのような状況に置いてだろうか」あるいは「基本的価値観、人生において何が有意義か、何が維持すべき価値を有するものかについての基本的見解」を真剣に自問したときに感じることができるものとしている。つまり、ネス以外の個人にとっては、上記のような問いを真剣に自問しないかぎり、ネスがディープエコロジーにおいて提唱する直観は生まれてこない。また、真剣な自問がネス以外の個人において、なされたとしてもディープエコロジーにおいて提唱されたような事柄が、人間の基本的ニーズとして見出されるかどうかは保証の外である。もしも、実際にネスが提唱した人間の基本的ニーズが、ニーズ足りうるには、非常に数多くの前提が伴うと考えられる。逆にいえば、ネスの提唱した基本的ニーズが、基本的ニーズであると受け入れられた場合にのみ、それは人間の基本的ニーズたりうるということである。このような洞察に至ったところで、われわれはネスへのいわれなき非難を、少なくとも一つは言わないですむようになった。それは「個人が人間の基本的ニーズを勝手に決めるな」という非難である。ネスは、こうなったらこうなるという話をしているのであって、決して、独善的に人間の本性を定めてしまっているわけではないと思われる。 

 話をネスの提唱した基本的ニーズを人間の基本的ニーズたらしめる前提にもどそう。ネスは、現代人は支配欲に支配されていると現代を分析する。それと同時に、ネスは、現代人は、もともと人間が有していた他の生き方についての可能性を見失っていると問題を提起していると思われる。そして、現在起こっている諸諸の環境問題は、人間が本来行うべき生き方への自問を行うこと無しに、経済的な事柄を重要視するようになったために起きているというわけである。しかし、ネスが批判する現代社会も、今ここに現実に存在しているわけであるから、人間がもついろいろな生き方の可能性の一つであることには違いないという考えも考えられはしないだろうか?たしかに、ネスが提唱するような生き方のほうが、より地球上の資源を枯渇させないし、動植物の絶滅を防ぐことができ、それどころか数を現在よりも増やすことも可能であると思われる。たしかに、これらの点は、地球環境の保全や自然と人間の共生、平等を重視するならば、人間中心的な経済活動を重視しているという現代の社会よりも、より改善されるかもしれない。一方、人間中心的な社会とネスの提唱する社会とを、どちらがより環境に負荷をかけないからいいなどの価値を一切考慮に入れず、人間が作ることのできる社会というレベルで考えてみると、どちらもそう変わらないのではないかと思われる。それというのも、人間中心的な経済活動を重視する社会というものは、現在がそうであるらしいので、すでに実際に人間が作ってしまっているとして、ネスの提唱する社会も、かりに実現されたとして、それはそれで、人間が作った社会の一形態ということにはならないだろうか。もしも、人間が作った社会の一形態に過ぎないとすれば、多数の中の一つということで、ディープエコロジーが与える、ディープエコロジーの思想こそ、人間本来の生き方に即したものであるという印象は薄れてしまうかもしれない。しかし、ディープエコロジーの思想を、ぜったいにこれこそが人間の本来的な生き方であるとは言い切れないといって、ディープエコロジーそのものを役に立たないと否定することはできない。なぜなら、ディープエコロジーは一定の価値観に基づいて「よりよい社会」を提示しうるし、また、ディープエコロジーの視点は、ディープエコロジストたちが批判するシャローなエコロジーの思想よりも、より深いと思われる洞察を導くきっかけになると思われるからである。つまりディープ・エコロジーの主張は、ある種の直観を共有することで、より深い洞察に基づいた、環境問題を作り出さない社会を形成することを提案しているということができるだろう。

 ディープ・エコロジーの思想は文明や社会による支配から完全に逃れて本来の人間の在り方を実現するような神秘的な理想郷を達成するようなものではない。それは明らかに現文明を作り上げてきた人間の性向の上に乗って、かつ意志をもって新たなる前提を持った社会へ移行しようとするものなのである。

 どのような点で彼らの提案が文明を作り上げてきた人間の性向を否定しえないかを述べたい。ものを個別の存在として捉えて(そのものを理解するために)名前を付ける事が、突き詰めれば人間による世界の支配構造の始まりであることは、ホルクハイマー/テオドール・W・アドルノの「啓蒙の弁証法」に詳しいが、このような性向を持った「分離」や「名前」の作用をネスも使わざるをえない。自己と対象というふうに分離し、名前をつけることで人間は対象の概念を捉えるとともに、そのことで相手に対して何か動作をする可能性を生み出してきた。対象を分離し理解するということがすでに自分が利用できるようにするという支配の構図をはらんでいるといえるが、現代では特に相手に対して(こと自然に対して)動作をすることがすなわち支配するということと直結している面がある。ネスは「分離」や「名付け」の作業、ひいては自己という意識の確立を引き継いだ上で、しかしそれを社会的な支配構造に結び付けることを否定しようとする。

 つまりネスの作業は、いったん分離して、個別のものとしてその概念を捉えた後に、今度は意識的に関係性をもつネットワークの中にあるものとしてつかみなおす作業である。ところで人間は相手を自分と違うものとして立場を確立する事でそのものにたいする行為を意識してきたのであるが、このようなすでに確立された人間の歴史を、分離以前の漠然と全てが一体であった状態に戻す事は出来ない。現代の文明においては対象者を確立する事の支配の側面が大きく発達している。しかしネスはここで支配の構造をとらずに、対象者にたいして一体感を意識しようとする。対象に対する実践の意志という人間の精神構造の上で、しかしそこでとる実践が「支配」ではなく「共生」なのである。一体感を得る事を喜びであると自覚する事で、個の喜びと有機的全体のバランスを意識的に構築するのである。

 ディープ・エコロジーは現代の価値観とはかけはなれた「自己の在り方」を主張するため、またそれが「直観」に依るとするために(自他双方から)宗教的である点が特に強調される。しかしその構造は決して現在の社会が形成されている構造と異なったものではなく、人間の性質からかけ離れたものでもないのである。上に展開された議論は、この点を強調するとともに、ディープ・エコロジーの考え方によって、「人間の性向を押し進めると自然の搾取、現代文明における支配構造しか導きえない」というあきらめを否定するものでもある。


<< 脚 注 >>

(1)アルネ・ネス「表面的なエコロジー運動と、深くて長期的なエコロジー動」1973

(2)ビル・デヴァル/ジョージ・セッションズ「ディープ・エコロジー」1985 


<< 参 考 文 献 >>

小原秀雄編「環境保護の思想3 環境思想の多様な展開」東海大学出版会(1995)

フリッチョ・カプラ、アーネスト・カレンバック著「ディープエコロジー考」佼成出版社(1995)