おわりに

担当:吉良敦岐

 これまでいろいろな環境思想を見てきたが、大きく分けて三つの流れでとらえることができる。

    実効性・説得力

根本性

動物の権利、樹木の当事者的確

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世代間倫理、ソーシャルエコロジー

環境倫理学、ディープエコロジー

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1番は、人間以外のものにも権利を与え、人間と台頭の立場を築くものである。2番は、現世代の人間と自然や未来世代との関係性に注目する視点である。3番は、自然にも固有の内在的な価値を認めるものである。

 環境問題に対して早急に採用できる思想的なアプローチは1番であろう。現在われわれ人間が使っている権利思想を広げて環境倫理を考える方法だ。アマミノクロウサギ裁判以来、自然物にも権利があるという考え方が着実に広まっている。近年なら、諌早湾のムツゴロウが権利の主体になるのではないかという議論もあった。また、「毛皮を着るなら裸の方がまし」と、裸で主張する人たちもいるうえ、病院を襲い、実験用ラットを開放する動物愛護団体もあるのである。これらの活動に対して「過激な狂信者の活動」というレッテルを貼ることは簡単である。「彼らは動物の権利を訴えている」という視点で捉えるなら、彼らの活動はそれなりに意味があるのではないか。なぜなら、これまで人間は動物の権利など考えもしなかったからである。

 しかし、動物の権利が依拠している権利思想は、フランス人権宣言以後に使われはじめた概念である。元々原始共同体には個という概念はなく、必然的に人間固有の権利などありもしなかったのだ。そう考えれば、権利思想は永久普遍の概念とはいえず、時代の変化と共に、陳腐な概念に変化する可能性もある。これまで人間が関心払わなかった世界を、人間の権利思想に取り込んでいる、それが動物の権利から見えてくる環境倫理である。薗意味では、動物の権利は脱人間中心主義とはいえないのではないか。

 さて、動物の権利の欠点が明らかになると、権利論に頼らない2番の優位が見える。2番では、互いが権利を主張しあう緊張感はなく、関係性に注目し、相手の立場を理解しようとする。つまり、2番の立場は「これは私の権利だ」と主張しあって論争する法廷論争から真理が生まれてくるとは考えない。むしろ、もとから相手が望むものは分からないのだから、分からないから現世代の人間が自由に振る舞えると考えたり、自然は人間に従属していると考えるのではなく、当の現世代の個々人が未来の世代・自然について考えながら行動しようとするものである。

 ところが、2番の視点でもまだ、人間という要素を消し去ることはできない。1番が人間がもつ概念を大切にして、2番は現世代の人間と自然・未来世代の関わりを重要視するからである。3番の立場は、この1番2番が抱える欠点を乗り越えようとするものである。3番は、自然には固有の内在的価値があると主張する。ディープエコロジーなら、全ての生物には自己実現をしなければならないというだろうし、環境倫理学では土地の肥沃さに価値があるというであろう(環境倫理学に関してはアメリカの環境保護の流れを抑えるとよく分かるであろう)。意味で3番の立場は、非常にディープ(深い)である。が、ディープなだけ、説得力に欠けると言えよう。突然、自然に内在的価値があるといったところで、どれだけの人が納得するだろうか。また、このような立場を流用して政策を立案することは困難を究める。なぜなら、絶えず政策は人間と自然の関係を捉えて考えられるからである。これらの立場は実効性・説得力に欠けるが、その問題を捉える深さ故に存在価値があるといえよう。

 環境思想を概観すると、これら各カテゴリーを越えて論争があった。例えば、動物の権利と環境倫理学なら、動物の権利は「環境倫理学は環境ファシズムだ」と非難し、環境倫理学は「動物の権利は生態系調和を全く考えていない」と非難した。また、ソーシャルエコロジーとディープエコロジーなら、ソーシャルエコロジーは「アースファースト(ディープエコロジーを主張する団体名)は、人間を無視した人間嫌いの環境保護である」と非難している。

 しかし、それぞれのカテゴリーが捉えようとしているレベルが違うと考えるなら、それらの論争はあまり意味あるものとは言えないであろう。なぜなら、短期的な利益と長期的な利益、実効性・説得力と根本性が一致しないことはよくあることだ。例えば、一日の手術の為に麻酔を使うことが許されるとしても、慢性的な使用は薬物中毒となるであろう。一方、長期的な視点ばかりを見て、一回の麻酔を拒否するなら、そもそも長期的に生きることができない。

 ならば、私たちが行うべきは「一つの立場が正しい」と結論づけることではない。むしろ、「双方ともそれなりの言い分があって正しい、ただ問題の緊急性と根の深さを考えながら各思想を使い分け、すべての立場を採用して立体的に政策を立案する必要がある」と言うべきであろう。