環境倫理学

担当:高島香織

[自然保護に関する2つのアプローチ]

 土壌、水、植物、および動物からなる「土地」(わたしたちのいう「自然」)の価値を、

1)それが資源であることに見出す立場と、
2)それを生態系として捉え、そのものに価値を内在させる立場がある。

  これらは後にジョン・パスモアによって自然の「保全(1)」と「保存(2)」という対立する考え方として捉えられるが(1)、それぞれ異なる自然保護対策に結び付く。

・経済的なアプローチ

 1)を背景とした自然保護の形態。農業経営的な性格をもち、「土地」の〔生産性の向上〕がもっぱらの目的となり、品種改良や肥料、機械などの技術が投入される。稲の保護・育成のために除草剤、防虫剤が散布されるように、このアプローチでは、経済的に価値のある構成要素の保護にあたって他の構成要素の犠牲は顧みられない傾向にある。また保護される構成要素は、ほとんどが人間にとってなんらかの価値のあるものに限られる。

・生態学的なアプローチ

 2)にみられるような「土地」全体に関心をもつ場合に展開される形態。「土地」における自己再生能力:「健康状態」に目が向けられる。「土地」の健康を保つその安定性を、生物相の複雑な構造である「土地共同体」における相互依存関係のなかに捉え、人間によって外側から作用を及ぼすのではなく、「土地」の自己再生能力である生態系の複雑性の保護を目的とする(2)

 レオポルドは、当時主流だった自然を資源とみなす経済的な動機による自然保護に対して、生態学的視点からのアプローチを展開し、それまでの人々の態度とそれに準ずる自然保護に含まれる人間中心的な態度と、その活動がごく表面的であることを明らかにした。経済的アプローチは、「土地」の不健康状態がわたしたち人間に把握可能な形になって表れる最終段階、いわば問題の氷山の一角に捕らわれ、根本的な原因を掴めないでいる。品種改良によって「土地」の生産性の衰えを補う行為は、表面的な因果関係の処理の問題へと問題をすりかえているにすぎない。生産性の衰えの原因となる真に配慮すべき「生理学」的事柄、「土地」の「健康状態」に対する考察は放置されるのである(3)

[土地倫理]

 倫理とは、相互依存関係にある要素が、その共同体がうまく機能するために課される制限や規範である。レオポルドは、倫理を最初は個人どうし、つづいて個人と社会の関係を律するものとして生態進化の過程としてとらえ、その適応範囲である共同体の枠組みが人間と「土地」との関係にまで拡大した場合の倫理を「土地倫理」とした。

 「土地倫理」は、「土地」の“支配者”的立場から相互に依存し合う生態系における“一構成員”へという、人間の立場の転換である。区画された農地で複数種の作物が栽培されるポリカルチャーは、何種類かが病気や災害によってダメージを受けることがあっても、他の何種類はそれに耐え、その構成要素の多様さによって「土地」全体の安定性は保たれるのである。一方、農業の機械化に伴い、プランテーションのように単一の作物が栽培される場合、その植物に病気が蔓延することは直接その「土地」全体にダメージを及ぼす。こういった「土地共同体」の相互作用の関係の中に人間をおくことによって、人間と対等な理由で、あるいは、その相互作用の複雑性、多様性がもたらす安定性を顧慮することで、「土地共同体」の他の構成員にもそれ自体の価値が認められる。そして人間は、一構成要素として、その共同体で繰り広げられる相互作用を意識した態度が必要とされる。

[自然保護教育]

 レオポルドは、自然保護における生態学的視点の実践に向けて、その知識の普及を教育に一任している。私有地を例に挙げ、もし自然保護が経済的な動機にのみ基づいてなされるとするならば、その土地が沼地であったり湿地や原生自然のような経済的価値がない場合においては、統一的な保護はなされない、と説く。

  この場合の保護可能性の要因として、レオポルドは、人間が「土地共同体」に貢献することの「義務」及び「誇り」に見出す(4)。これらは、生態学的知識をもち、「土地共同体」の一構成員として自らを認識したうえでもたらされる態度である。レオポルドの掲げる教育とは、ひとびとを経済的固執から解放し、統一された自然保護を求めるこれらの態度を形成するための、その基盤となる生態学的知識を培うことである(5)

[考察:経済的見解と生態学的見解]

 人間と自然はむかし密接に関り合っていたが、文明の発達による様々な技術の介入によって、より間接的となった。わたしたちはエアコンを使って、季節に関係なく適温で過ごすこともできる。以前と比べて自然から受ける影響が緩和されるようになった。この隔てられた距離によって自然への認識がうすれ、人間は自然を操作の対象とし、同時にその関心はもっぱら技術の発達へ向けられた。“技術がすべて”とする人間の態度によってなされる自然保護は、先の農地の例に見るように、技術開発を積み重ねるという表面的な領域から脱することができず、その母体となっている「土地」の「健康状態」を顧みる機会を自ら逃している。

 現在問題とされる少子化の傾向は、高齢化社会と結び付いて国民労働層の経済的負担が増加するという視点からの論議がなされる。一方、地球のcarrying capacityは人口の増加で限界に近づいており、全人口を満たす食糧の生産についての安否が問われるという生物学的見解がある。しかし普通この2つの見解は同時には展開されない。日本国内では少子化が問題、一歩世界に出ると人口圧が切迫した問題とされる。自然の自律的なメカニズムについての生態学的知識の欠如により、わたしたちは地球の「健康状態」についておそまつな危機感にとどまるのと同時に、食糧不足は未開拓の土地を技術発展によって農地に転化することで解決可能であるという今までと同じ技術依存の人間中心的見解に捕らわれる。現在わたしたちが懸念することができるのは、個々人に直接に影響を及ぼす経済的な要因なのである。

  しかし果たして、生態学的知識によって統一的な自然保護が達成されるのだろうか。考慮すべき「健康状態」を維持する生態系の複雑性を、人間が完全に理解できるとはレオポルドは言っていない(6)。その「健康状態」自身、程度概念であり、“優・良・劣”と、基準を簡単には設定できないであろう(7)。だが、現在少なくとも「土地共同体」の複雑性、多様性がその安定性を維持するのであろうこと、また人間がもたらす変化の程度が緩やかなほど、その安定性が保たれるであろうことを、歴史と生態学によって把握することができる。  

  彼が意図したのはむしろ、直接捉えることが困難で、見逃されやすい「土地」について、培われた過去の経験と生態学の知識を用いて洞察し、そのより深い理解を、人間の態度に還元すること、つまり人間の自然観の転換であろう。自然を自らの外に捉える現代の人間が再びこの距離を埋め、自然に対する認識と関係を再構築する作業である。


<< 注 釈 >>

(1)「『保全(preservation)』とは保護といっても、<E・・・・・にそなえた節約>を意味しており、最終的には人間の将来の消費のために天然資源を保護するということであり、『保存(conservation)』とは、<E・・・・・からの保護>を意味し、生物の特定種や原生自然を損傷や破壊から保護するということで、人間のためというより、むしろ人間の行動を規制してでもそのようなものを保護しようという考え方である。」(『環境学がわかる』P114)

(2)「健康とは、土地が自己再生をする能力を備えていることである。自然保護とは、この能力を理解し保存しようとするわれわれ人間の努力のことである。」(『土地倫理』P343)

(3)「平均的な市民にとって、土地は、理解し、愛し、共に生きるものというよりは、いまだに飼い馴らし利用されるべきものなのである。資源はいまだに別のもの、実際には商品として考えられている。土地共同体の共同生活者とは考えられていない。」(『自然保護』P47)

(4)「農民は自分の土地の元来の構成要素に加えて、新たに導入された構成要素について知るべきだし、少なくとも構成要素すべてのサンプルを保持していることに誇りを持つべきだ。健康な土壌、作物、および家畜に加えて、彼は湿地、林地、池、川、沼地あるいは道路端の草原の健康なサンプルを知り、それに誇りを感ずるべきだ。」(『自然保護』P56)

(5)「もし私有地の地主が生態学的なものの見方の持ち主なら、自分の農地と地域社会に変化に富んだ美しさを加味してくれるこうした土地のかなりの部分の守護者である自分に、誇りを感じてしかるべきなのだが。」(『土地倫理』P330)

(6)「実際には、土地のメカニズムは複雑すぎて理解できないし、これからもそうだろう。」(『自然保護』P52)
「現在、『土地』という言葉は、人間精神が理解できるより広い知識範囲を包括している。」(『自然保護』P54)

(7)「何らかの資源の供給不足が必ず土地の不健康を指すのではないし、他方、機能の不履行は供給がどれほど豊かでも常に健康不足をさす」(『自然保護』P46)


<<参考文献>>

『環境学がわかる』朝日新聞社(1994)

『環境思想の系譜3-環境思想の多様な展開』東海大学出版社(1995)所収
 -『自然保護-全体として保護するのか、それとも部分的に保護するのか-』アルド・レオポルド

『野生のうたが聞こえる』講談社学術文庫(1997)所収
 -『自然保護の美学』
 -『アメリカ文学における野生生物』
 -『原生自然』
 -『土地倫理』アルド・レオポルド(1949)