世代間倫理

担当:吉良敦岐

<<フレチェットの世代間倫理>>

 環境思想の系譜の中で、世代間倫理をいち早く提唱したのが、K.S.シュレーダー=フレチェットである。彼女は「環境の倫理」という本において、それまでの環境思想を体系化し、彼女自身「フロンティア倫理」「救命艇倫理」「宇宙船倫理」によってそれまでの倫理規範を分析し、また「世代間倫理」についても考察を加えている。ここでは、まず彼女の思想を概観するためにも、「フロンティア倫理」「救命艇倫理」「宇宙船倫理」という発達段階を押さえ、その後に「世代間倫理」について分析することにする。

●フロンティア倫理

 フロンティア倫理の根本思想は、ユダヤ・キリスト教的思想の前提「人間が自然の支配者であり、人間以外の生存者は人間が尊重せざるを得ないいかなる権利も持っていない」という人間中心主義の倫理である。この倫理の元で、人間は無限の自然を信じ、急速に資源を消費してしまった。具体的に言えば、アメリカのカウボーイがバイソンを乱獲し絶滅寸前に追い込んだこと、過剰な掘削による石油資源の枯渇などが、この倫理の結末を体現している。土地の所有者が決まっていなければ、私たち全員がその土地から最大限の利益を得ようとする。その結果、その土地の資源は全く再生することができず、枯渇してしまうであろう。フロンティア倫理を続けるなら、このような「共有地の悲劇」を回避することはできないであろう。

●救命艇倫理

 救命艇倫理の提唱者ハーディンは、地球の中にいくつかの救命艇が浮かんでおり、その船の中には乗員が少ない救命艇(先進国)、乗員が溢れている救命艇(発展途上国)が存在すると仮定する。このような状況の時、ハーディンは「豊かなボートに乗っている人々の生存を維持するためには、たとえ貧しいボートの人が助けを求めても、豊かなボートには乗船を認めない」方が良いという。ハーディンがこの結論に行き着いた理由には

1)世界の資源が地球人にとって平等ならば、結局は特定利益集団が儲けるだけで、共有地の悲劇を回避することはできない。
2)発展途上国を外部から援助すると、発展途上国は人口を抑制しなければならないことを学ばない。その結果、結局は発展途上国の人口が増加し、問題は解決しない。

という二点が根拠だ。

 これは一見、非人道的で人間の生命を軽視しているような気もする。しかし、すべての人間を救おうとする人道的な行為を採用すれば、地球は破滅するであろう。例えば、裕福な国は難民の移入を水際で止めなければ、やがて大量の難民が流入し、その国の資源を食いつぶして難民も裕福な国の民も共倒れしてしまうであろう。それは、現在の人々が破滅するだけではなく、未来世代の破滅も意味するのである。現に、現在のドイツが難民の流入で困っていたりもする。その意味で、救命艇倫理は非人道的ではあるが、人間の生命を重要視している発言であり、初めて世代間倫理を考慮に入れた倫理ともとれる(もちろん裕福な国の人間だけが助かるのであるが)。その限りにおいて、この倫理は許されるであろうとハーディンは言うのである。

 これに関して、フレチェットはさまざまな反論をしている。

1)危機がないところに危機を見出して誇張し、その恐ろしさから議論を組み立てているのではないか。
2)豊かな国が誰が生き、誰が死ぬのかを決定する権利があることになるが、それはおかしい。
3)先進国は発展途上国から輸入することによって成り立っていることが多く、先進国は発展途上国なしでは成り立たない。
4)先進国が発展途上国に対して援助しないのなら、発展途上国の人々はより子どもをつくり、老後に備える。
5)発展途上国を救わないのなら、政治的な危機が生まれ、結局は先進国に波及する

これらの反論はすべて至極当然のものだと思われるが、最も重要視すべきは3番であろう。この論点には、それまでの環境問題が地域的なレベルに止まっていたのに対して、地球規模の環境破壊(オゾン層、酸性雨)も注目されるようになった背景がある。地球規模の環境破壊を考えるなら、もし先進国が発展途上国を援助しなければ、発展途上国の排出する汚染物質によって先進国も汚染されてしまうのである。そう考えると、それぞれの国を完全に独立した救命艇にたとえ、船と船の相互性を無視することは不可能であろう。

●宇宙船倫理

 宇宙船倫理を最初に提案したのはフラーである。宇宙船倫理とは、「地球を宇宙に浮いている宇宙船と考え、その内部に内的維持システムを持っているが、そのシステム自体は有限で閉鎖的である」という観点から構成される倫理である。この宇宙船倫理を採用するなら、救命艇倫理は「地球的なスケールで考える能力の欠如」という烙印を押される。つまり、救命艇倫理は、個々の船(それぞれの国)ばかりを協調して、船と船の間に広がる海(地球、世界)を無視しているのである。宇宙船倫理は、すべての国を包み込む地球という視点をもち、それらの相互浸透性に注目する。例えば、宇宙船の内部に貧困な者が暴動を起こすとすれば、その問題は宇宙船全体に波及するというように考えるのである。

 また、宇宙船倫理の実行手段は民主的な政治手段によるものであり、各自が自発的に宇宙船倫理から産み出される提言に対して従うことを求められる。確かに、このような倫理基準は空想的なものかもしれない。しかし、フレチェットは彼女の論文の結論で、環境危機の問題は物質的な問題ではなく、精神的危機をいかに解決するかにある、と述べている(1)。これを見ると、この提言自体を空想的と考えてしまうその思考法こそ、近代の環境破壊を推進してきたロジックとなるのではないか。なぜなら、環境問題は物質さえ無限にあれば「救命艇倫理」も「宇宙船倫理」も採用する必要はない、つまり物質さえあれば「フロンティア倫理」を続けることができると考えることになるからである。これでは、茶色に染めた学生の髪を黒に染め直すだけで問題解決が図れると勘違いしている、中学校の生活指導と何ら代わりない。「髪を染めることはどういうことなのか」「それが外から見てどう見えるのか」、これらのことを学生に納得してもらい、黒に染め直してもらうのとは別次元だ。宇宙船倫理は、人間自身の思考法を反省するからこそ、精神的な問題なのである。

●世代間倫理

 地球の資源に限界が見えるに従って、人間は世代間倫理という直観を持つようになった。それは、例えば現在の世代で石油を大量消費したなら、未来の世代が石油を使う権利を奪ってしまうという考え方である。現在の世代は再生可能資源を利用したり、環境を汚染して未来に浄化を求めるような政策をとってはいけない、とするのが世代間倫理の基本である。フレチェットの中で、この世代間倫理と宇宙船倫理は同根の問題である。なぜなら、もし世代間倫理を非難するなら「世代間で環境問題を考える能力の欠如」ということになるからである。

 しかし、世代間倫理の説明は困難を究める。例えば、フレチェットが未来の権利について最初にして重要な分析をした人物としているゴールディングは、世代間倫理は論証不可能であるとした(2)。そもそも世代間倫理では顕在的な相互性を結ぶことができないのである。現在の世代だけに限るなら、会社の契約のように双方が顔を合わし、合意して契約書にはんこを押すことが可能である。しかし、未来の人間と契約を結ぶといっても、はんこを押すことも、サインすることも、名刺交換すらできなのである。だから、従来の社会契約論では、世代間の倫理を説明することは不可能であった。

 この問題に関してフレチェットは「顕在的な相互性は必要条件ではない」と、新しい試みを提唱する。フレチェットは以下のような理論を援用しながら、世代間倫理を説く。

1)もし未来世代に権利を認めると、私たちの感情移入と同情心を高めることになるので、我々のためになる。

2)私たちの先祖が現世代のためにいろいろとしたのであるから、私たちも未来世代に責任を持たねばならない。
3)未来の人は、われわれが恩義を感じている過去の人々の代理人と考えらるから、世代間倫理が成立する。

 より理論的なレベルで世代間倫理をフレチェットが引用するのは、ロールズやカラハンである。

1)私たちが、自分の生い立ちも興味・関心も能力も資産・夫妻も分からない原初状態(3)にいると考えるならば、私たちは公平を望むであろう。だから、全ての世代を原初状態においたならば、世代間でも公平でなければならない。

2)社会契約は契約の一方の当事者が義務を受け入れることによっても成立する。よって、現在の世代が未来の世代に対して恩を感じ、現在の環境の維持に義務感を持つなら、世代間倫理は成立する。

 このように、フレチェットはロールズの原初状態という理論、そして恩・義務の概念を用いて、世代間の倫理を説明したのである。

<<フレチェットの問題点>>

 フレチェットの世代間倫理の問題点はその実効性の乏しさに現れている。果たして、宇宙船倫理・世代間倫理を説くだけで、環境問題が解決するのかと問われれば閉口せざるを得ない。もたもたしていると環境破壊は取り返しのつかないことになるため、実効性を考えるならば、ハーディンの救命艇倫理の方がよりうまく機能するのである。

 しかし、環境保全という問題は少なくとも二つのカテゴリーに分けることができると思われる。

1)政策レベル…「限界を超えて」にみられるように、地球の限界を数量的に示し、それを越えないような形で環境倫理を提唱する。具体的には、CO2の削減目標値の設定、フロンガスの使用禁止などがあげられる。地球の保存が倫理基準設定の発端になっている。

2)倫理レベル…そもそも環境問題を人間の精神の問題ととらえる。それまでの人間の自然観、環境問題を生んだ人間の思考構造を分析し、近代人的思考の反省をうながす。具体的には、環境教育、社会思想研究があげられる。

人間の自然観の変革が倫理基準の発端になっている。もちろん、この二つの問題は、現在地球が直面している環境問題という点で一括りにできる。しかし、その根本に持っている倫理基準の発端が違っているのである。政策レベルの議論はハードな解決策、倫理レベルはソフトな解決策を提案していると考えることができる。

 

救命艇倫理

世代間倫理・宇宙船倫理

政策レベル

×

倫理レベル

×

この表を見れば分かるように、救命艇倫理と世代間倫理・宇宙船倫理は本来別カテゴリーに存在するから、相互に論駁しあうことはできても、お互いを論破することは不可能である。それは「野球とサッカーとどちらが素晴らしいか」を論じあうのと同じことなのである。そこで、この章では、倫理レベルに限って、フレチェットに対して反駁を加えようとする。フレチェットの議論の多くはロールズの正義論に頼っているため、多くはロールズに対する問題点の提示になるところをご容赦願いたい。

●世代間倫理と公正としての正義

 フレチェットは世代間倫理を説くにあたって、ロールズの正義論の一部を引用するが、そこに微妙なずれが生まれてくる。まずもって、ロールズの正義論は何も永久不変の一般理論ではなく、実践(practice)に対して適用される正義に限定されるものである(4)。つまり、ロールズが提唱しているのは一つの利益共同体での限定された正義であり、その実践に参加していない限りは、外界で別の正義が存在していることを承知しているのである。

 従来の社会契約論では、自分が地球に存在するかしないかを選択する段階が考えられる。「社会と契約するかしないかはあなた次第。契約するなら社会に貢献し、しないなら社会から出ていけ」という段階だ。国レベルで考えるなら、「わが国の法律に納得できないなら、他の国に住みなさい」と言うことができ、また言われた本人も移動することが可能である。しかし「地球の掟に従わないのなら、地球から出ていけ」という言葉は別ものだ。人間は地球以外に住むところがなく、他の場所に移動することは不可能である。たとえ、そのような選択の余地を与えても、それは強迫の一言にしかならない(なぜなら同意せざるを得ないのだから)。従来の社会契約論を地球に適応するなら、同世代の倫理の証明すら危うくなる。ましてや世代間の倫理を説明することは不可能である。そのことにロールズが自覚的なので、従来の社会契約論を批判し、一つの実践に限った正義と強調するのである。

 フレチェットはこの理論を地球に適用して、世代間の倫理を説こうとした。確かに、地球を一つの実践と考えると、その枠組みにおける正義論を考えることをできる。しかし、私たちは宇宙船地球号という閉じた世界で暮らしていると考えると、地球外生命を発見しない限りは、フレチェットの世代間倫理は永久不変の一般理論を意味することになってしまう。

●世代間倫理と原初状態

 最後に、フレチェットが引用する原初状態という概念を出してみよう。原初状態、つまり「自分の状態や欲求がさっぱり分からない状態」において人々が望むのは平等であり、そこから世代間倫理も導き出せるという議論である。加藤尚武はこの原初状態という設定に対して、そもそもその設定自体に無理があり「自分の存在の判断の不在という自己喪失は狂気の出発点ではないか」と反駁している。より根本的なところで議論するなら、そもそも自分の欲求も分からない状態にいるとするなら、平等という欲求を持つことがおかしい。原初状態では何も望んではいけないはずなのに、公平を望むことは矛盾してはいないか。

 公平こそ最善という概念は、アメリカの精神基盤であり、そのことはフレチェットの論文にもよく現れている(5)。このような結論に疑問を持たなかったのは、フレチェット自身がアメリカで育っているため、公平という概念も限定された概念であるということに気づかなかったのかもしれない。しかし、このような公平の概念も生得的なものではなく、人間の発達段階で発生的に学び取られていくものだと考えられる(6)

 以上を考察すると、フレチェットがロールズの正義論を援用したのはお門違いとなる。つまり、ロールズの正義論は具体的な政策のレベルで語られる正義であり、世代間の倫理を語るには荷が重い。もちろん、ロールズもそのことを承知しているからこそ、はじめの段階で「一つの実践における正義論であり、一般論ではない」と念を押しているのだ。

 また、以上のロールズ分析以外にも、「義務の解釈の違い」という大きな壁が存在する。しかし、義務に関しての解釈は、「フレチェットの注目点」に譲ることにする。

<<フレチェットの注目点
     〜「〜すべきではない」と「〜すべきである」の倫理>>

 フレチェットが世代間倫理を説くきっかけになったのは、農薬DDTの残留毒性に危機感を抱いたからである。ご存じの通りDDTは非常に分解されにくい化学物質であり、一旦農薬として散布されると、最終的に生物濃縮によって私たちの体内に残留することになる。その結果、発ガン率が高まってしまうのである。そこからフレチェットは「未来の世代のことを考えると、DDTを使用するべきではない」という結論に達する。

 また、フレチェットは未来の世代が何を必要としているかは分からないので、救命艇倫理のような強制的な手段を採用することは難しいと考えている(7)。だからこそ、私たち各自が禁欲的に行動をしなければならない。そう考えれば、当初のフレチェットの世代間倫理は「〜すべきではない」という倫理規定であったことが分かる(8)。「〜すべきではない」という倫理基準は、自己を自己によって制御する、いわゆる自律的・禁欲的な倫理規定である。この自律的・禁欲的な倫理規定は、「〜すべきである」という構築的な倫理規定と一線を画すべきであろう(9)

 環境倫理の発達の過程で、それぞれの学者は常に「人間中心主義の脱却」を願ってきた。それは、何でも思い通りになると勘違いしてきた近代人に対するアンチテーゼであった。しかし、そこで用いられてきた議論の多くは「菜食主義者になるべきだ」とか「生物共同体を保持するものは正しい」という構築的なものであった(10)。しかし、これらの思想を外部に伝えようとすると、必然的にメッセージ性が強くなり、時にイデオロギー的にならざるを得ない。

 その点をふまえるなら、「〜すべきである」という倫理規定は常に危険をはらんでいると言えよう。現在の段階で未来の予測をすることは、結局は未来を現在の人間のロジックで閉じこめることになる。つまり自己中心主義、人間中心主義を乗り越えることは不可能なのだ。これは動物の権利という思想のアキレス腱でもある。動物の権利は功利主義の概念を利用して、「痛みを感じるか、感じないかが道徳の根源である」と規定した。これは人間中心主義を脱するかのようで、実はまたしても人間中心主義のロジックにからめ取られている。なぜなら、痛みという人間の概念を、一方的に動物に適応しようとしただけだ

からである。

 人間中心主義とは「人間が環境に対して絶対的な支配力と操作性を持つ」と解釈してみる。すると、問題は人間中心主義にあるのではなくて、人間の環境に対する支配力と操作性にあるといえる。「〜すべきだ」という倫理規定は、この支配性と操作性からは開放されてはいない。その意味では、当初の目標である人間中心主義に成功しているとは言い難い。

 一方、「〜すべきではない」という倫理規準が意味するものは、人間中心主義から脱却ではない。むしろ、環境に対する人間の支配性と操作性を排除するものである。人と自然の関係を考える以前に、人間だけの段階で自己準拠的なシステムを想定することである。それは「〜すべきではない」という倫理基準を自分に対して命令していくシステムとも考えることができる。人間が己の支配力や操作性から開放されないとするなら、その支配力や操作性を自分に対して向けていくことによってしか環境破壊を防ぐことはできず、少なくもそうすることによって、人間は環境に対して支配力や操作性を向けなくても良いのである。

 世代間の倫理を考えるときもしかりである。フレチェットは、未来の世代が存在するかしないかについての考察を避けている(11)。それは、想定することによって「〜すべきである」という倫理規定を採用せざるを得なくなるからだと思える。また、世代間の倫理では絶えず未来の人間の権利を予見できないと問題にぶつかる。その問題に関しても、社会契約に相互性は必要なく、一方の契約者(つまり現世代の人間)が義務を引き受けることによって成立すると述べている(12)。ここでもやはり、フレチェットの倫理規範は「〜すべきではない」という自律的・禁欲的な段階に止まっているのである。

 しかし、この義務という思想はすんなりと受け入れるわけにもいかない。なぜなら、「われわれは安全を保つ義務がある」といってミサイルを発射する国、「アジア諸国を開放するのが我々の義務である」と語って侵略戦争を肯定化する国もあった。このようなロジックで使われる義務概念は攻撃的な義務であり、フレチェットの世代間倫理から見えてくる自律的・禁欲的な義務概念とは分けて考えるべきであろう。

 では、なぜフレチェットがこのような結論に至ることができたのか。それについては異論もあろうがエコ・フェミニズム的な視点で見てみたい。フレチェット自身が女性であったからこそ、2人の子どもをもつ母親であったからこそ、男性的で構築的な倫理規定の欠点を発見することができたのではないか。彼女がつくりだした倫理規定は、母親である彼女自身が彼女の子どものためにできること、つまり彼女自身がどのように未来の世代と関われるかという問題だったのである。だから、彼女は自己で完結できる自律的・禁欲的な「〜すべきではない」の倫理規定を産み出したといえるのいではないか。

 ハーディンは、このような自律的・禁欲的な倫理規範に対して、人間の自発性を過大評価していると非難している。確かにハーディンの言い分は正しい。「〜すべきではない」の倫理規範に頼るだけでは、地球環境を救うことはできない。そのようなゆるやかな判断では急激に変化してる環境破壊に対応できないからだ。現在の地球環境のことを考えると、強権的な政策的手段が必要である。

 しかし、私が考えるところでは倫理と政策は分別すべきである。なぜなら、倫理は政策を管理するものであって、政策の基盤、いや政策以前の問題を扱うものである。もし政策の為に倫理概念を構築できるのであるなら、人間の操作性は無限に拡張され、結局は人間中心主義的・構築的な倫理に戻ってしまうことになる。倫理を政策で扱うようになったとき、人々は指導者を求めているのである。

<< 補 講 >>

 この論文を書いている途中に、友人に以下のような論点を指摘していただいた。「ロールズでは原初状態において平等という想定を破らない限りは、個人の欲求の追求は許される、むしろ平等を破らないように欲求を向けることができる、平等を実現するために欲求を追求することができる、と考えられている。もしロールズがカントのように、個の自律的な意志(これは実践のレベルでは善意志に基づく合理的な欲求)に共同性を負わせる議論と違いがない。フランス革命では、個の自律を絶対的に追求した結果、テロに終わった。その歴史を受けると、共同性と個人の関係を堪えず議論にしてきたのがヨーロッパだと思います。一方、アメリカでは個の欲求を合理的に追求できる文化を持ち続け、それがさまざまな学にも影響を及ぼしている。ここから推測すると、フレチェットの世代間倫理はあまり意義はないのではないか」

 これに答えるなら、まずカントが生きた啓蒙の時代と現代の世界観に違いがある。カントの時代でも、多くの人が人間による操作の危険を認識していたが、いわゆる環境に関しては開いた世界であったといえる。そのことは、自律的・禁欲的な倫理観を持つプロテスタントでさえも、メイフラワー号に乗って新大陸に移動したことをみても分かる。新大陸の発見は、結局はまだ開拓できるフロンティアがあったということに他ならない。つまり、カントが生きた時代では、まだフロンティア倫理が成立する可能性がある要因が存在したのである。

 しかし、現代はカントの生きた時代とは違う。地球のすべては知り尽くされ、もはやフロンティアのない閉じた世界となった。だから、「人間がフロンティア倫理を反省して、自主的に倫理の転換を図ろうとしている」というより、「人間がフロンティア倫理を放棄しなければ生きて行けない状況に直面した」といったほうが良い。よって、現在の私たちが直面した環境問題における倫理の転換と、カントが想定した「個よ共同性であれ」というメッセージは分断する必要があるのではないか?

 私がフレチェットのところで、自己準拠の概念を提出したのは、もちろんルーマンを意識してのことである。カントは人間の意識をすべてのものの根底にある世界の主体と考えていた。しかし、ルーマンによると、そのような人間の主体性は無意味なものである(13)。人間の主体性を強調するやいなや、外部環境の中から客体が生成され、必然的に主体から客体への支配関係が結ばれてしまう(このあたりは、ソーシャルエコロジーを参照していただきたい)。だからこそ、主体を心的システムと置き換え、心的システムを自己準拠的システムとしてとらえる。また、外部にも別のシステムが存在することを認める。このような転換によって、直接、人間がもつ支配性を外部環境に向ける必要がないのではないか。

 もちろん、フレチェットがルーマンを参照しているとは考えられない。しかし、環境問題によって限界が見えた世界において、敢えて世代間の倫理につかみかからない、ただ現代の世代が世代間倫理を「義務感」として捉えるだけフレチェットの倫理は、カントの倫理観とは似ていながらも違っているといえる。


<< 注 釈 >>

(1)「環境危機の扱いをめぐって倫理学の力の見せ所になる論争の確信は、資源の枯渇や汚染といった物質的な問題をいかに解決するかといった問題だけではない。同じくらい重圧となる問題は、環境の安定性を守るための非民主的方法によって提出された精神的危機を如何に解決するかということなのである」(『環境の倫理』P97)

(2)「しかし、ゴールディングはその古典的な論文において、テクノロジーの変化の複雑さと急激さの結果として、遠い将来の子孫たちの生活条件を知ることは不可能である、と論じた。彼らがわれわれと同じ善き生活の概念を主張するかどうかを予見することは不可能だから、彼らがわれわれの社会理想を共有するとは言えないし、したがって、われわれと同じ権利を有するとは言えないだろう、とゴールディングは結論づけたのである」(『環境の倫理』P124)

(3)「正しいことの考え方、従ってまた正義の考え方は、たんに一人の人にとって選択原理を社会全体に拡大したものにすぎない、と想定する代わりに、社会契約説は、社会に属する合理的な諸個人が、いっしょに一つの共同行為において自分たちの間で正義や不正義とみなされるべきものは何であるかを選択しなくてはならない、と仮定する。彼らは、自分達の間できっぱりと正義についての自分たちの考え方となるべきものを決定しなければならない。このような決定は、誰も社会における自分の地位を知らず、生まれつきの才能や能力の配分において自分がどのような状況にあるのかさえも知らないということをその重要な特徴の一つとする、適切に定義された始源状態において行われるものと考えられる。すべての人々が永久に拘束される正義の諸原理は、この種の特定の情報が欠けている状態で選択されるのである。無知のヴェールによって、誰も、どの社会階級に属するかとかどの程度資産をもっているかという偶然的な事情によって、利益を得たり不利益をこうむったりすることがなくなるのである。それ故、このような知識をもつことによって日常生活において生じる取引問題は、正義の諸原理の選択には影響を及ぼさない。従って、社会契約説においては、正義論、そして実に倫理学自体が、合理的選択の一般理論の一部なのであり、このことはカント流の倫理学の定式化では全く明白な事実である」(『公正としての正義』P124)

(4)この件に関しては、ロールズの「公正としての正義」から以下の部分を参照して考察したい。

「全体を通じて、私は、正義を、社会諸制度あるいは私が実践(practice)とよぶものの一つの徳性としてのみ考える」(『環境の倫理』P32)

「私は、ここでの議論を実践に対して適応される正義の意味に限定しようと思う」(『環境の倫理』P32)

「第一に、私は、正義の背景についての記述のような推測的説明を、正義概念を分析する一つの方法として用いたい。それ故、人間の動機づけに関する一つの一般理論を想定していると解してほしくない。」(『環境の倫理』P44)

(5)「ロールズの見解は道理にかなってたものであるように思われる。特に合衆国憲法第五および第十四修正箇条で保証されているような、平等の機会、平等の正義、平等な保護をうける権利を認めるようになったアメリカの歴史に照らしてみると、特にそうだ」(『環境の倫理』P71)

「さらに、未来の諸個人は権利を有していると言えるかどうか尋ねるとき、われわれは「権利」ということで、人間存在にとって基本的なものを念頭においている。そうした権利は、第一には、生存権、発現・出版・所有・集会の自由権を含んでいるし、また、訴訟はの執行権および法のもとでの等しい保護の権利を含んでいる。それらを「基本権」と名付けることの正当化をここで与えると、話が長くなりすぎるのだが、ともかくわれわれはこれまで、それらを基本権として定義してきたのである。というのも、それらは合衆国権利章典に含まれているし、また、多数の国民の政府が、一切の人間がそうした権利を有していることを肯定してきたからである」(『環境の倫理』P122)

(6)この部分で私が想定しているのは、ピアジェの認識論である。ピアジェによると、思考の発達には、ラマルク的経験説もローレンツ的生得説も存在しない。つまり、すべてが経験から思考するのではなく、また生まれ持った特性もないのである。人間の思考構造は、外界と内界の共応反応により、発生的に構築されていくものである。だから、「平等・公平」という概念も、生得的なものではなく、アメリカという土壌とそこに住む人の相互作用によって生まれたものだと考えられる。

(7)「第一に、人口とか第三世界での資源の消費とか制限という強制的な手段の認可を拒む点で、宇宙船倫理を説く者は正しいと私は思うが、それは、個人についても国についても何が「必要」なのかを決定することは、ほとんど不可能だからだ」(『環境の倫理』P92)

(8)「救命ボート倫理を説く者は、環境保護の手段として、貧しい人々に対する政策の変革を第一に求めるのに対して、宇宙船倫理を説く者は、環境の安定を保つために、すべての人々、とりわけ裕福な人々の回心を求めるのである」(『環境の倫理』P91

 この引用の中で「変革」という言葉と、「回心」という言葉に注意されたい。「変革」が表すものが「〜すべきである」の倫理規定であり、「回心」が著すものが「〜すべきではない」の倫理規定である。

(9)この部分はカントの道徳形而上学原論から着想を得ている。

「ここからして意志の第三の実践的原理が生じる、そして-この原理が取りも直さず意志と普遍的実践理性とを一致させる最高条件である、すなわち-普遍的に立法する意志としての、それぞれの理性的存在者の意志という理念である。

・・・

それだから意志は、ただ分けもなく法則に服従するのではなくて、自分自身に法則を与える立法者として見なさねばならないような仕方で服従するのである。つまり意志はある普遍的立法者であればこそ、法則(意志は、自分自身を法則の制定者と見なしてよい)に服従するのである」

カント、篠田英雄訳「道徳形而上学原論」岩波文庫 P108〜P109

つまり、実践的見地では、人間は立法者である。しかし、その立法は絶対善を体現したものでなければならない。そして、人間はその立法によって、自分を縛り付けなければならないというように理解される。これが私のいう禁欲的な倫理基準である。私は単純に倫理規定を「〜すべきではない」、「〜すべきである」と二分した。なぜなら、「〜」の部分に、「世代間倫理を考える同世代の人間」という主語が当てはまることが適当と思われたからだ。ここでは、カントの「汝なすべし」という定言命法は、「〜すべきではない」という倫理規定と同カテゴリーで考えていただきたい。なぜなら、「汝なすべし」という定言命法は、自分を自分の力によって縛り付ける、自律的・禁欲的な倫理形態だからである。

 この自律的・禁欲的倫理形態の成立を遡ると、プロテスタンティズムの倫理、つまり

・キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服従していない
・キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、誰にも服従している

松田智雄編「世界の名著18『ルター』」中央公論社 P52

に行き着くことになるが、この論文ではフレチェットの関係だけに終始したいので、考察は省く。

(10)「菜食主義者になるべきだ」については、トム・レーガンの動物の権利を参照、「生物共同体を保持するものは正しい」については、アルド・レオポルドのランドエシックを参照している。この二つの思想に関しては、東海大学出版会「環境思想の系譜3 環境思想の多様な展開」に詳しい。

(11)「以下の考察において未来の人々とは、結局は生育しうる人間として生まれるであろう一切の現実に存在する諸個人を指している、と仮定したい。それゆえ、その存在が異論の余地があるものか、あるいは単に可能的にすぎないか、といった人々は、われわれの考察の主題ではない。明らかに、「可能的」人格の権利について云々することは困難だろう(この定義はまた、困難だが、ほんの部分的にしか関係していないトピック、すなわち堕胎についてくだくだしく論議しなくてすませてくれよう)」(『環境の倫理』P122)

(12)ここでは、フレチェットはロールズより具体的な世代間倫理の例としてカラハンの説明を引用している。

「カラハンに従えば、あるタイプの契約は、いずれの賛同も予定された相互的恩恵に基づいているがゆえにではなく、単純に、その契約の一方の当事者が義務を受けいれることを選ぶがゆえに、存在することになる。子供たちは生まれたいかどうか尋ねられることはない、しかし、両親が子供たちに対する義務を引き受けるという事実は、両者間の契約が設定されたことを意味している、とカラハンは言う。したがって自分の人生の価値ありとする者は誰でも、両親に対する潜勢的な義務を受けいれたことになるというわけだ」(『環境の倫理』P129)

(13)ここではカントを想起してみる価値がある。カントは、多数のものが(感覚与件の形式で)与えられており、それらについての統一体が構成(綜合)される必要があるという先入観から出発していた。このように考えられた多数のものを分離してはじめて、したがって複合性を疑わしいものと見なすことによってはじめて、主体が主体たらしめられており、詳しく言えばそうした綜合の創出者たらしめるにとどまらず、多数のものとそれらについての統一体を関連づける主体たらしめられている。システム理論は、こうした出発点との関係を断っており、それゆえにそうした主体概念を必要としていない。システム理論では、主体概念が自己準拠的なシステム概念に取って代わられているのである。システム理論の定式化しうるところによると、それぞれの統一体は、このシステムの中で用いられているかぎり、(ある要素の統一体であろうと、ある過程の統一体であろうと、またあるシステムの統一体であろうと)そのシステムそれ自体によって構成されなければならないのであり、その環境から取り寄せられることはありえないのである。(『社会システム理論」P43)


<<文 献 抄>>

シュレーダー=フレチェット編、京都生命倫理研究会訳「環境の倫理・上」晃洋書房(1993)

 -『環境についての責任と古典的倫理理論』
 -『「フロンティア(カウボーイ)倫理」と「救命艇倫理」』
 -『宇宙船倫理』
 -『テクノロジー・環境・世代間の公平』

シュレーダー=フレチェット編、京都生命倫理研究会訳「環境の倫理・下」晃洋書房(1993)
 -『農薬の毒性-倫理的概観』
 -『共有地の悲劇』

ロールズ、田中成明編訳「公正としての正義」(1984)

 -『公正としての正義』
 -『分配としての正義』

<< 二 次 文 献>>

小原秀雄監修「環境思想の系譜3 環境思想の多様な展開」東海大学出版会(1995)

カント、篠田英雄訳「道徳形而上学原論」岩波文庫(1960)
ルター、松田智雄編「世界の名著18『ルター』」中央公論社(昭和44)
ピアジェ、滝沢武久訳「発生的認識論」文庫クセジュ(1972)
加藤尚武「環境倫理学のすすめ」丸善ライブラリー(1991)
鬼頭秀一「自然保護を問い直す」ちくま新書(1996)