ソーシャルエコロジー

担当:上野山晃弘

 現代の環境問題における自然と人間の関係を考えるならば、明らかに、人間が自然を「支配の対象」としていることが分かる。すなわち、発達した科学技術を用いて、自然を人間にとってコントロールできるものとして作り上げようとする営為が、特に近代以降、さまざまな方法を取られて行われてきたわけだ。さらに現代の資本主義社会においては、人間も含め、あらゆる生命の世界全体が商品化しうる対象として扱われるようになったのである。

 ソーシャルエコロジーは、そのような自然を支配の対象とする見方を拒否する。なぜなら、自然はそれ自身が、常に豊かさと安定性を保ちつつ、自らに潜在している可能性を実現していくものであるからだ。そして、人間もまた、自然との関わりにおいて、自らの可能性を実現しつつ、全体とのバランスを保っていくのである。したがって、あらゆるものを支配形態(ヒエラルキー)のもとに押し込めようとする見方は、本来の自然の姿を歪めるものである。たとえば、蜂の生態系に、「女王蜂」とその部下として「働き蜂」という構図を当てはめる見方では、蜂の生態系が維持している相互扶助関係を見落とすことになるであろう。あるいは、男性社会における女性の地位を快復するために、単に女性を男性と同じ地位にあるものとして考えるならば、そのような思考方法自体が、結局人間中心の支配体系へと陥ってしまい、男性と女性、あるいはその環境世界との関わりに対する洞察は試みられることがないのである。このような事態から逃れるためにはもはや、すべてのものを対象として見る思考形態そのものを脱却する必要がある。

 したがって、ソーシャルエコロジーにおける自然は、それ自身がもつ多様性と安定性を維持しながら、その中で人間も社会も同時に発展していくことが可能な自然として描き出されるのであり、そこに現代の人間に対する批判の軸を見出す。このような観点は、たとえば海外援助において、被援助国の住民の意志を省みないような援助形態への批判としても有効性をもつものとして考えることができる。その意味では、単に現代に対する批判に終わるのではなく、ある程度、実践的に展開可能な視座として受け止めていく必要があるだろう。

マレイ・ブクチン『ソーシャルエコロジーとは何か』

[ 概 要 ]

 ソーシャルエコロジーは、「人間による自然支配」の根元を「人間による人間支配」に求める。なぜなら、人間による自然支配を指摘するだけでは、現代噴出している国家間、あるいはジェンダー、民族間におけるさまざまな諸問題に対する切り口を得られないからである。そして人間の自然支配の背後には、「合理的理性をもった人間」が「盲目で競争的な自然」を征服するのだというメンタリティがあったことを鋭く指摘する。したがって彼らの主張は必然的に、人間の自然支配によって生じる現代の環境問題を解決するためには、その支配構造そのものを排除しなければならない、という命題となる。

 彼らが提唱するは、自然を支配対象としてみるのではなく、自然に備わった多様性と発展可能性を実現させながら、同時に安定性を保っていくような社会を創造することである。そのような自然の中で、自然と人間はお互いの自由、すなわちそれぞれが潜在させている発展可能性を達成していくことができるような自由の獲得を目指すのである。

 このような自然と人間、あるいは社会の「あるべき姿」を描き出すことによって、彼らはさまざまな社会問題を、歴史的に形成され続けてきた支配形態から生じてきたものとして読み解いていく。このような視点をとることによって、特に近代以降、加速的に形成された支配形態への批判のための座標を築くとともに、主体の合理性にもとづいた主体/客体の分離(さらには精神と身体、思考と自然といった)西欧における伝統的二元論に対する批判を展開する。だからといって、主体の能動性を否定し、主体である人間を客体である自然の一部へと還元してしまうのではなく、主体の能動性は保持した上で、自然との調和を目指す。なぜなら主体の能動性は、最初期の原生生物であるアメーバにおいても、その周囲にある環境世界から有機的栄養を取得することによって生命を維持する働きが認められるからであり、人間においてその行為を否定することはできないからである。

 このようにして、社会問題が、自然の発展過程においてどのように位置づけられるのか、ということを洞察しようとする。すなわち、複雑性をまずます発展させながら自らの潜在可能性を達成していく自然史において、なぜそれを妨げてしまうような社会問題が生じたのかということに対する視座を見出すと同時に、人間のあらゆるものに対する支配という行為が浮き彫りにされるのである。

 このとき用いられるタームとしては「相互扶助」(クロポトキン/ロシアの地理学者により提唱された)というキーワードがある。これは、ダーウィンの進化論によって「適者生存」という支配関係の面のみが強調されていた時代背景の中で生まれてきた概念であるが、その言葉は単に、支配関係のない状態を意味するのではなく、生態系における「相互扶助」関係の中に、支配構造と相互補完関係を同時に読み取っていくというものであった。たとえば、蜂の生態系に対して「女王バチ」と「働きバチ」といった支配形態を当てはめようとするならば、蜂の生態系における多様な相互扶助関係を見落とすことになるのである。なぜなら、女王バチは決して自分を「女王」だと思っていないし、働きバチも決して自分のことを「女王に使える部下」であるとは考えないのである。また女性を男性支配のもとで捉えようとすることが女性差別の中に読み取ることによって、ただ女性と男性を同じ地位におくことによっても、両者の多様な関係性を見落としてしまうことになる。つまり、ともすれば「支配する主体と支配される客体」という捉え方をしてしまう思考形態を根本から見直そうとするのである。

 したがって、このようなタームを用い、また西欧伝統の二元論を批判するブクチンが、単に支配をやめろと言うことはないだろうという予感をもって彼の論文を読めば、そこに表現されている言葉を社会的・歴史的な背景のもとへと読み解いていくことができるのではないだろうか。以下の文章は以上のような意図のもとに書いたものである。彼の主張に対する反証としてではなく反照として解釈していただければ、ソーシャルエコロジーの理論をさらに展開可能なものとして受け止めることができるのではないだろうか。

[ 評 価 ]

 ソーシャルエコロジーとは何かと言ったときに、一般的には、人間が自然に対して行っている「支配」という操作的行為を、人間の社会的な関係のもとで捉えていこうとする試みであると理解されているようだ。そして、そのような行為によって引き起こされる環境破壊を止めるためには、その行為自体をやめなければならないと主張しているように思われている(1)

 しかし彼らの論文を読めば、本当にそのような二者択一的な主張がなされているのだろうかということが疑問に浮かぶ。まず彼らが想定しているのは、人間が自然を対象化し、人間にとって理解可能な状態にすることによって行われる「支配」という行為が、現代だけでなく、人間および生物の世界で常になされてきたことである、ということであり、それを分析する際に重視するのは歴史的な視点である(2)

 したがって、もちろん、ソーシャルエコロジーが現代の環境破壊の根底に見るのは、「人間による自然支配」であるのだが、しかしそれは、人間がもつ操作性を自然・文化・社会に対する支配という構図で捉えるということで終わってしまうのではなく、歴史的な文脈の中で人と自然の関係に光を当てていくことによって、「人と(その操作対象としての)自然」という空間的・時間的に限定された二元論を克服しようとするのである。なぜなら、そのような二元論では、さまざまな領域で存在する人間の支配構造を指摘することによって、その対象の救済(たとえばそれに対して権利を「与える」)を唱えたとしても、その行為自体が持つ人間中心主義を脱することができないからである。言い換えれば、人間を頂点とした階層型の支配形態にしたがった連続性を、対象となるものに対して与えることしかできないのである(3)

 しかし、だからといって人間がそのような自己中心性から完全に抜け出すことができるとは考えていない(4)。なぜなら、人間が、自己の確立のためにあらゆるものをそれ自体が持つ多様性から切り離して、対象とすることが可能なもの、つまり取り扱うことができるものに作り上げることによって支配してきたことは、歴史上延々と続けてきたことであり、そのような行為を人間が取らざるを得ないことに対してもさまざまな解釈がなされてきた。たとえばそれはフロイトにおいて、人間の自我が、自己の同一性(アイデンティティ)を維持するために常に対象備給を必要とする、というところにも表れているし、人間が対象を制御可能なものとして作り上げようとする試みは、アドルノにおいても歴史的な営みとして指摘されている(5)

 また、ブクチン学派の研究者であるジャネット・ビールによれば、ギリシャ語の「ロゴス」は、自然の中に存在している秩序(理解可能性)と人間の理性的な力(理解力)の二つの意味を同時にもっており、「人間が自然を理解できる」ということは、その両者が「一致する」ということを意味する(6)。そこでは、人間の理性と自然に内在する秩序の一致が想定され、特に中世においてその証明が試みられたわけであるが、「証明を試みる」ということは裏を返せば「未だ証明されていない」ということである。このことは、「ロゴス」には暴力性が込められているということ、つまり「理解する」ということは、人間の理解力に対応する対象が存在しなければ成り立たない行為である、ということに帰結する。また、「製作する」という行為に主体の能動的な行為を読み取って「操作する」と訳されるドイツ語の machen が、Akkusativ(直接目的語)を必要とすることを同時に考えると、人間が自然を理解しようとすること自体が対象化を伴う行為であり、そのような能動的行為が省みられなくなったときに、対象に対して大きな影響力を与えてしまう行為(つまり操作及び支配)が行われることになる。

 そしてその時期とはまさしく近代である。つまり、「ロゴス」がもつ二つの意味がどのように扱われてきたかということをみれば、(ビールの指摘によれば)古代及び中世においては、ストア派やキリスト教思想家及び神秘主義者によって、なんとか二つの意味の一致(自然と人間の精神の一致)を証明しようと試みられてきたのだが、近代において、「数学」によって示された仮説演繹的な秩序が、自然の秩序を表しているものとして大いに受け入れられたのである。そしてそれがもつ有効性のみが追求されるようになったときには、もはやその前提である神(あるいは自然)と人間の証明は試みられることはなくなった。

 そのとき、その有効性が狭い限られた枠組の中でしか測られることがないものである、ということは想像すらされず、圧倒的な成功のもとで、それをすべてに適用することができるのだという確信を人々は強め、またそのような確信を人々に与え続けたのが近代資本主義社会であったのである。ブクチンが問題とするのはまさしくその点である。彼は何も、人間は支配をやめなければならない、といったことを主張するために「支配」という行為を持ち出してきたのではない。ただその行為が省みられることもなく、また省みることもできないような状況に置かれている人間が、少なくとも自分たちの操作的行為が及ぼす力を自然との関わりの中で調整することができるような機会となる洞察を、歴史の中に求めるのである(7)

 現代、個人における「自由」の意味を、「操作できること」(もっと穏やかに言うなら、自分が望むものを選択することができること)ということに求めるならば、その自由すら文化産業によって完全に制御されたものであり、個人は自由に選択したつもりであっても、その選択肢さえも文化産業によって与えられたものにすぎない、ということがアドルノによって指摘されたわけだが、それでは、そのような状況の中で個人に残された自由とは何なのだろうか。それは操作の断念にあるのだろうか。そのとき彼が提示するのは次の二つの問いである。すなわち

「自然を容赦ない競争的な市場として思い描くのか、それとも創造的で豊穣な生物共同体として思い描くのか」(8)

という問いである。言い換えるなら、「自然は操作可能なものなのか、それとも操作不可能なものなのか」ということになる。つまり、このような二つの問いに対して二者択一の答えを出そうとするのではなく、それらの問いを設定するという行為自体の意味を見つめ直すことによって、歴史的文脈の中に問を展開し、その対象となっている自然そのものが持つ重層的な構造、及びその中で生きる人間も含めたあらゆる生命の関わりに光を当てようとするのである(9)

 なぜならこのような問に対して、人間が支配対象を作り上げるという行為を省みることなく、ただ一義的な答えを求めようとするなら、どれだけ「自然との共生」あるいは「自然の複雑性」ということを主張してみたところで、その言葉がもつ意味をそれ以上掘り下げることはできず、ただ言葉のみが一人歩きしてしまうという事態に陥ってしまうからである。そしてそのような傾向が、近代資本主義の中で、その圧倒的な成功とともに常に求め続けられ(10)、もはや環境倫理そのものが、一つの(価値を与えられた)商品として消費されるようになったとするならば、そのような状況の中で、単に「問題設定→問題解決」という図式を追うだけでは、その論理自体が閉じられた(したがって人間によって支配可能な)狭い領域の中に沈みこんでしまうことになる。

 もちろん彼は、そのような短期的な問題設定のもつ有効性を否定するわけではない。したがって、環境問題という実践的な問題を前にした彼は、ある程度中期的な視野に立って考えを提示さざるを得ないのであるが、その際に取られる戦略としては、一方で「人間による自然支配」を描き、その対極として「人間と自然の相互扶助的な共生関係」を描き出す。つまり後者は、人間の能動性と自然の豊饒さが調和された状態を保ちながら、同時にそれは発展不可能な静止状態ではなく、常に豊かに潜在している可能性を実現していく過程として描かれる(11)。そして、それと同じ過程を社会の分化と相補性の中に見出すことによって、これまでヒエラルキー的な支配形態のもとで蔽い隠されてきた多様性と安定性を、前面に押し出して強調するのである。したがって、そこでは彼もまた、「支配か、共生か」という二者選択において後者に解を求めるという態度として表向きには表われている。

 それを表面的に受け止めるなら、彼の主張は結局、共生という概念に意味を求める主体の自己中心性に陥ってしまっているのではないか、と批判することができる。また多様性をもった自然の中で、人間と自然がお互いの潜在可能性を達成していくんだという自己実現の過程は、自然を複雑性という一つの概念に押し込めてしまおうとする暴力性を潜ませたものになってしまうという問題点として挙げることができる。しかしそれが、言語を用いて表現する以上、最終的には避け得ない問題であるとするならば、そこに表現された言葉を如何に物象化させることなく歴史的社会状況を背景とした文脈の中で受け止めることができるかということが重要となってくる。すなわち、一方において、人間理性崇拝による人間中心の支配構造の反省として自然を非合理なものとする傾向が進められ、また他方においては、自然の理解不可能性により生ずる人間の恐怖が自然支配を助長してきたのだと考えるならば、どのような時代背景の中で彼の実践的立場が表明されているかということを受け止めることができるのではないだろうか。

 つまり、冒頭で述べられている「成長か、さもなければ死か」という言葉が、彼が批判する資本主義社会の論理であるのであれば、またそのような論理が現代の画一的な思考形態を生み出したのだと考えるならば、彼もまたその論理に無条件に従って二者択一的な解を求めようとするとは考えられない。あくまで問題となるのは、すべてをその有効性の文脈のもとへと引き寄せようとする思考形態そのものを省みることなのであり、その解決策として人間の能動性を自然の中へと埋没させてしまうような安易な還元主義なのである。そのとき、自然や社会が本来保持している「多様性の中の統一性」とともに無視され続けてきたものを、再び暗闇の中へと放逐するのではなく、新たな文脈の中で見つめ直ようと試みるのである(12)


[ 註 釈 ]

(1)「ソーシャルエコロジーは、人間の社会的関係性を重視し、自然を、人間が関わって存在している「人間的自然」という形で捉え、人間の自然に対する支配を止めるためには、人間の他の人間に対する支配を取り除く必要があるとする」(『環境学が分かる』P120)

(2)「現代のエコロジー的および社会的危機についての議論において、私たちは、人類が何世紀にもわたって人間に対する支配と、その延長としての自然に対する支配を正当化するのに用いてきた支配のメンタリティが背景にあることを無視しがちである」(『ソーシャル・エコロジーとは何か』P195)

(3)「ソーシャルエコロジーは、人類自身と同様に人間の精神をも自然の脈絡の中に置き、それを自らの自然誌の用語で探求するのであるが、それは思考と自然、主観と客観、精神と身体、社会的なものと自然的なものとの鋭い分裂を克服し、意識というものを自然誌の経路に沿った漸進的変化の豊かさを踏まえて進化的に解釈することによって西洋文化の伝統的な二元論を超克するためである」(『ソーシャル・エコロジーとは何か』P199)

(4)「一貫性と変化の驚くべき相互作用を反映してきた有機的、無機的進化の一つの側面が、主観性の進化である。主観性は、人間だけの特性だけではない。主観性はそれ自体の自然誌を持っている。単なる自己アイデンティティーや感受性としての単細胞の有機体という原初の形から、主観性は自然の歴史を通じて拡大してきた」(『ソーシャルエコロジーの倫理における弁証法』P226)

(5)「古来、進歩的思想という、最も広い意味での啓蒙が追求してきた目標は、人間から恐怖を除き、人間を支配者の地位につけるということであった」(『啓蒙の弁証法』P3)

(6)「理性的な人間の精神は、世界を理解できる。なぜなら、広大無辺な大宇宙(マクロコスモス)は、小宇宙(ミクロコスモス)としての人間によく似た精神を持っているからだ。ギリシャ語の「ロゴス」の様々な意味の中には、人間の精神の理解力と自然の理解可能性の両方が含まれている。ロゴスは、自然界に内在している「理解可能性」と、それを発見することができる人間の理解力を同時に指していた」(『ソーシャルエコロジーの倫理における弁証法』P219)

(7)「ソーシャルエコロジーはこれらすべての問題に根本的に新しい光を当てそれらを解決するための全く新しい方法を確立しようとするものである。私は、自然は常に人間の諸条件の中に、社会的諸関係における自然の存在を否定するイデオロギー的な構成物自体の中に存在することを示そうとしてきた」(『ソーシャル・エコロジーとは何か』P210)

(8)「自然を容赦ない競争的な市場として思い描くのか、それとも創造的で豊穣な生物共同体として思い描くのかということは、二つの根本的に分岐した思考と感受性の経路につながり、人間の将来についての対照的な方向性と構想を導くのである」(『ソーシャル・エコロジーとは何か』P214)

(9)「生命は、能動的で、相互作用的で、産出力のある、関係的な、そしてコンテクスト(状況)的な意味をもつものである」(『ソーシャル・エコロジーとは何か』P201)

(10)(精神と身体、主体と客体といった)「二元論が、支配される人間の受苦と野蛮化によって支えられる自然「支配」の神話にイデオロギー的な信憑性を与えてきた」(『ソーシャル・エコロジーとは何か』P211)

(11)「潜在的可能性は必然性ではない。過程を導く論理は動かし得ない「法則」の形態をとっているわけではない。発展の真実はいかなる展開にも暗に示されており、安定性、多様性、豊饒性を達成しつつ、その自由がいかにおぼろげにしか知覚されていなくても「自由の領域」を拡大する程度に規定されているのである」(『ソーシャル・エコロジーとは何か』P206)

(12)「私たちは伝統的な理性、今日の様式の科学、現代の技術の利用を避けることはできない。それらもまた、人間及び人間と自然的世界との物質代謝の将来において固有の位置を有している。しかし私たちは合理性、科学、技術のこれらの様式がそれぞれ適切な位置を占める新しいコンテクスト−参加的で開放的であるような、他のもっと質的な知と生産の様式を否定しないエコロジー的なコンテクスト−を確立することができる」(『ソーシャル・エコロジーとは何か』P217)


[参考文献]

『環境思想の系譜2−環境思想と社会』東海大学出版社(1995)・所収

 -『ソーシャル・エコロジーとは何か』マレイ・ブクチン(1987)

 -『ソーシャル・エコロジーの倫理における弁証法』ジャネット・ビール(1983)

『環境学が分かる』朝日新聞社(1994)

『啓蒙の弁証法』ホルクハイマー/アドルノ・岩波書店(1990)