樹木の当事者適格

担当:江西千歩

 現行法では樹木や川のような自然物が、自らの利益・損害を語ることはできない(1)。自然物自身の名において、その利害を自然物の代理として後見人を立てることが法的に許容されなければ、現実レベルで裁判に勝てない。自然環境の問題が人々の生活上に強く影響するようになってきた近代社会において、法上の議論が成立するためには、自然物を含む自然(2)自体に「法的権利」が与えられなければ対等に争えない。

 自然の権利を求めた法律家の先駆者というべきストーンは、当論文でまず、今では当たり前だと思われがちな「法的権利」というものが明らかに人工的に造られたものであることを提起し直している。社会のはじまったとき、社会は極めて個人的な世界であった。大昔では、自分とその家族がすべてだったと考えられている。それから社会の範囲は徐々に広がりを見せ、集落ができ、国ができ、国際社会が成り立ち、社会の範囲が拡大・多様化するにつれ、人々の社会的関心の対象も拡大されてきた。同時に「権利」も、はじめは非常に狭い範囲(集団のトップだけ)に認められていたものが、徐々に対象(貴族、市民、奴隷・・・と現在もなお続く)を拡大し、今では「権利」はそこら中、当たり前のように存在している(3)。確かに、一つ一つのものの「権利」が新たに見出されていくその過程は、権利を認める人達にとって、また認められる方の人達にとっても、重大で、新しい世界観を導き、人間世界の発展する原動力となってきた。

 しかし「人間世界の発展」は、裏を返せば自然搾取への道のりである。自然に手をのばしすぎて、いまや人と自然の越えてはならない境界線の見えなくなった(4)人々は、本来は人間社会を律するという目的であった「法」という規範に、絶対的ともいえる信頼をおき、自然はもちろん現実の世界全ての問題を解決できると思ってしまいがちである。人間はいわば自己を社会化しすぎた。人工的な社会システムを築いてその中に暮らしながら、それが人工的なシステムであるということが、矛盾をもたらす。自然環境問題はそれが表面化している問題だと言えよう。

 明らかに自然物の方が人間よりも先にこの世にあるのに(5)、自然物は人間社会サイドから見て「権利」がなかった。人間社会では、近代の「合理的な」自然搾取による急速な発展から、公害など自然環境問題が発現したり天然資源の枯渇問題が出てきて、今では人間の利害が脅かされるようになった。そうして初めて、人間は自然物を先輩として認める。すなわち、再び自然への畏敬の念を取り戻し、また自然からの恩恵を実感する。環境保護運動はその歴史的結果だろう。一方、法も含めて近代合理主義的な社会制度は、今なお有効に機能しており、その枠内において、自然搾取をいかにしてどれだけ制限していくかが、自然の「法的権利」設定の際に問題となる。現実は現実として認めていかねばならない。私たちは歴史を否定できない。従って自然に「権利」を認めると言っても、決して原始の生活に戻れとか環境に悪いと思われることを一切するなというのではない(6)

●自然(自然物)の法的権利を支持する論拠

1)自然物を含む自然環境にはこれまで「法的権利」は認められてこなかったが、一方で、自然環境ではなくとも同様に形のないものに「法的権利」を認めることは、法の面から見ても決して新しいことではない。たとえば「法人」は目にみえるものではないし、他にも、信託、地方自治体、学校もそうである(7)。社会でも法でも、目の見えないものに対して権利を与えることはもうすでにやっていることである。

2)また現行法では自然は当事者適格を持ちえない(8)が、法システムを改め法的権利を自然物自身に認めることで、今まで手に届かなかった広域の被害が認められるようになる(9)。人と人の間をつなぐ自然を実体とし、すべての損害のうちで曖昧にされがちな間接的な自然物への影響や被害者(社会的な弱者)に対し、目を開くことができるようになる。例えば、ある川の上流で汚染物質を垂れ流す企業があって、下流の人々から訴えられると、その下流の人々への賠償はなされても「川」の汚染が認められないために、海へ流れ出して漁獲高が減ったりことが問われないかもしれない。(実際には海の補償問題はかなりしっかりしているという話であるが。)それは、個人同士が利益バランスをとるために相対的な自然への損害代償を請求しているにすぎず(10)、実際の自然への負荷量すべてが換算されない。

3)そして実際に近年顕著になってきた、自然への悪影響を懸念した人々の訴えに、直接の彼らへの被害はみられないものの、その害された気持ちを影響とみなす法的寛容性が見られるようになっているという。当事者適格の緩和(適用範囲の拡大)の傾向は、自然の法的権利がどこの馬の骨か、はたまた由来のわからぬものとして突然現れてくるものではないことを教えてくれる(11)

4)しかし、法的権利をより明確に与えるためには当事者適格の緩和を待っているより、はっきり「後見人方式」を採用するべきであろう。自然は、実体があろうとなかろうと、胎児や植物人間状態のように法的に無能なものとして「後見人」を立てることが必要となる(12)。自然の後見人は、「誰か」の利益のためではなく「自然そのもの」の利益のために存在することが条件である。どうやって「自然そのもの」の利益や損失をそれと認めるかは人間の価値判断によるしかないのだが、自然の利害は人間の利害よりも比較的容易にみいだせる(13)。だから自然破壊と見られる行為に対し、自然(権利主体としての)に後見人を見たて、裁判を起こしうる。

5)法は客観的、すなわち社会の公平性を保持することが目的であり、人工的でありながら人間の行動を監視する機能をもつ。まず人工的であることの意義を考える。人工的であるということは、客観性を追求するあまり無機的になりがちな法に柔軟さ(人情を注ぎこんだりすること)を与える(14)。他方、人間の行動を監視するにあたって法は、社会システムを維持するのに有効にはたらくことを目的とするが、個人主義(それ自体、社会システムに組み込まれている)が進んで、管理される方の人の受益「権利」(この権利も人間社会で想定されたものではあるが)も保証されるべきであるから、人が不都合を感じる場合は社会システムに訴えるということも可能である。法といっても絶対(無敵)ではないし、事実を無視してはいけない。むしろ事実があって、人がその経験を生かしてこそ、社会システムが有機的に動くのである。

 以上のように、ストーンは法−操作主義的な面以上に、これまでは重要視されなかった社会的・精神的な面をより重大であると捉えている。

 彼がこの論文を通して強調することは以下のようにまとめられよう。これまでと違い人間中心では自分自身が身動きがとれなくなってきた現在の社会における人間は、社会的に自らが価値の転換を求められていることを認識すべきである。彼は人間よりも自然環境を優先するような全体論的な環境主義者(人間非中心主義者)ではない。あくまでも社会システムの側から、自然に法的権利を与えてそれ自体への損害を承認するとともに、二者間の利害関係(特定の「誰か」が「誰か」に利益/損害をもたらす)に形式を限定する単純な法システムを、より柔軟に、つまり広大な利害の正確な範囲に適用できるようにするのが目的であった。法の公平性にせまるひとつのアプローチとしての「自然の権利」論といえる。


<< 注 釈 >>

(1)人間社会の法システム、そして人と自然の関係における、自然の存在感の薄さには目を見はるものがある。

「近代法においては、自然とその構成要素は原則的に人間の財産権の対象に過ぎない。人間が自然を支配し利用することは国家に対しても私人に対しても原則的には自由である。そして法による環境問題に対する対処は、人間の自然に対する原則的な活動の自由を例外的にいかに制約するかという枠組みからなされてきた ・・・

 ところで現代社会において自然破壊を伴う人間活動は、建前上にせよ、多くの人々の利益の実現(豊かさ、快適さ、安全など)を目的としている。他方、自然に直接依存して生きる人々の数はますます減少している。仮に開発がこれらの人々の権利を侵害しても、最大多数の最大幸福という民主主義の仮装原理から開発は押しきられ、自然破壊は容認される。

 現代の法の下では自然の破壊により権利を侵害される人々が、その権利を事前に防衛するためには最終的には司法過程に依存せざるをえない。民事訴訟においては、当該開発を差し止めようとする原告は、当該開発が自然を破壊することだけでなく、少なくとも自己の具体的な権利が侵害される蓋然性のあること、それが受任限度を越えることを立証しなければならない」(「自然の権利」山村/関根編 P30〜31)

(2)「「自然」という概念は、第一義的には人間と相即不離の関係にある「時間ないし空間的関係性」を言うものと思われる。すなわち、人間をも含んだ世界の展開のプロセス、秩序、軌道である。とりあえず、これを狭義の自然と呼ぶ」(前出「自然の権利」P41)

(3)「もともとは、誰もが自分自身と、自分を取り巻くきわめて狭い範囲の者にしか配慮しなかった。後に人間はその範囲を拡張し・・・

 法の歴史も、これと同じように発展したことを暗に示している」P58(現代思想 1990年10月号 クリストファー・ストーン著「樹木の当事者適格−自然物の法的権利について」以下、著作無記名の引用は同論文による)

(4)境界が見えていたとき、人は、例えば森の回復力を見越して、再生可能な程度に木の伐採を行っていた。中国から日本に原始的な製鉄法が入ってきて、中国地方で山を切り開く製鉄が盛んであったとき、あくまでも森の成長に人が従い「間引き」程度の伐採を行っていた、と現在の山の状態(山形や伐採の跡)から考えられている。また、森林破壊の主因と見られがちな焼畑移動農耕にしても、歴史的には、維持可能な耕作が行われてきた。

佐々木高明「農耕文化の異なる論理」(「農耕の技術」第15号 1992 P26-7)から引用する。

「一般に伝統的な焼畑農耕民は森林とともに生きてきた森の民である。東南アジアの例によると、彼らは一般的に森林を伐採・火入れした後1〜3年間作物を栽培し、8〜15年ほど休閑し、再び森林が再生したあとを焼畑にして生活している。この森林−焼畑耕地−休閑−森林のサイクルが、その生活にとって大切なことは、彼ら自身よく承知している。・・・したがって、伝統的な焼畑農耕民の場合には、必要以上の面積をむやみに拡大しようとすることはない」

(5)「自然は、すべての無生物、すべての種(結局は人間)が運命に司られて現れ消える、これは幕切れのない舞台である。他方、人間とその自然環境との共存は、両方のより良いところで「お互いが」妥協しなければならないことを意味する」P74〜75

(6)「自然環境が権利を有すべきであると言うことは、誰も木を切ってはならないといった、愚かなことを言うことではない。われわれは人が権利を有すると言うが、−−少なくとも本稿を書いている時点では、その権利は行使可能なものを意味している。・・・環境が権利を持つべきだと言うことは、それがわれわれの想像しうるあらゆる権利を持つべきだと言うことではないし、人間が持つものと同一範囲の権利を持たせよと言うことでもない」P61

(7)「権利を有すると認められるようになってきたものが、人の形をしているとばかりは限らない。法律家の世界では、少し例をあげれば、信託、法人、合弁企業、地方自治体、サブキャピター・R信託、国家や州など、無生物の権利保有者も人として扱われている」

「われわれは、法人が『それ自身の』権利を有し、多くの制定法上のあるいは憲法上の目的のために、それが『人』や『市民』とされることに慣れ切っているので、これが昔の法律家にはどれほど驚くべきことであったかを忘れてしまっている」P59

(8)「だが、あるものが法的権利を有すると言うためには、公的機関が、権利を脅かされているものの行為や手続きについて審理する、というだけでは十分ではない。私が『法的権利の保有者』という言葉を使う場合には、これに加え次の三つの基準を満たす必要がある。これらはいずれも、あるものを法的に『重視する』ことへと通じる−−つまりそれ自身のうちに法的に認められた価値と権威を持つことであり、(今日の権利保有者達が誰であれ)単に『われわれ』に役立つ手段として奉仕するだけに終わらないことになる。その基準は、第一に、そのものが『それ自身の要請により』訴訟を開始しうること、第二は、法的な救済を承認するにあたり、裁判所が『そのものに対する侵害』を考慮せざるをえないこと、第三に、その救済が『そのもののために』なされねばならないこと、以上の三つである」P61〜62

(9)「環境汚染の費用に関するかぎり、その配分的な考え方は挫折しはじめている。というのも、伝統的な法制度のもとでは、われわれの活動に関するすべての社会的費用を「把握」したり、それをわれわれに突きつけたりするのに、ますます手間取るようになってきたからである。・・・その他の人たちの多くの利害はあまりにも拡散しすぎており、またおそらくその原因も「遠隔的」なものが多いので、代表を確保して損害賠償を求めることはできないだろう。・・・つまり、私がここで提案している一つの見方というのは、自然物の後見人を後世の人々の後見人としてみるだけではなく、同様に、そのほかでは代表しえず、しかも遠隔的に被害を受ける現在の人々の後見人としても見ようということである。このように損害の焦点を湖自体に据えること、いわば湖に「編入」させることにより、その法システムは、汚染によって生じる損害の大部分を効果的に証明することができるようになる」P70〜71

(10)「ほとんどいたる所で、川岸の住人には、川を汚染されない「権利」を有する、法理上の資格はある。・・・だがこの権利は、裁判管轄区ごとに・・・異なっており、そこに共通することと言えば、ある種のバランスを取ることぐらいである・・・裁判所がその干渉の度合を変えることによって行うことは、汚染を除去するための上流の住民の、あるいはその社会の経済的窮乏と、汚染が続くことにより下流の住人の被る経済的窮乏との間のバランス取りである。川に対する損害、また魚や亀や「下等」生物に対する損害は、このバランス取りの作業の中で、考慮されてはいない。自然環境そのものが権利を有しない以上、こういったことは法的に認知される問題とはならない」P63

(11)「当事者適格の点に関して、裁判所は・・・「連邦電力委員会によって発せられた命令によって害される」いかなる当事者にも、審理を開始するための権利が与えられると言う。その上、裁判所は、「によって害される」という下りを、伝統的に個人の経済的損害を述べたものと限定するのではなく、もっと広く、「電力発達に関して、美や自然の保護あるいは回復という面に」ついて、「自らの活動や行動によって特別な関心を示してきたもの」を含めるように読んだのである。同じような論法が、他の巡回裁判所をも揺るがし、連邦電力委員会、内務省、保健・教育・福祉省による行為に対して、自然環境保護団体が直接の経済的損害に代えて、そのメンバーの自然保護や美という利益を基礎に、訴えを提起することを認めるようになった」P67

(12)「私は、自然物に関する法律問題は、法的に無能なもの−−例えば植物人間になってしまった者−−に関する場合と同様に扱われるべきものと考える。・・・

 同じ理由で、われわれは、自然物の味方により、それが危機的な状況にあると思われる場合には、彼が保護を求めて裁判所に提訴しうるシステムを作るべきである」P65

(13)「自然はその欲求をわれわれに伝えることが「できる」し、しかもそのやり方は、必ずしもひどく不明確なものでもない・・・私には、自宅の庭が水を欲しているかがわかる。それは、司法長官が、下級審による不利な判決に対し、合衆国がいつ上訴することを欲しているかを判断するよりも、より確実かつ有意義な判断であると確信している。芝は私に、水を欲していることを、葉や土の渇き具合によって−さわってみればすぐに分かること−またはげた部分や黄色に変色した部分が現れたり、人が上を歩いた後の弾力性のなさによって知らせるのである。一方、「アメリカ合衆国」は、司法長官にどのようにコミュニケートするのであろうか。・・・われわれは毎日、他人のために他人の利益と称せられているもののために、判断を下している。しかも、この「他人」の要求というものは、あまりはっきりと証明できないことが多く、川や樹木や土地の要求と比較すれば、概念的にはるかに形而上学的なものでさえある」P68〜69

(14)「われわれは、損害額を算定するうえで(人間の)痛みや苦しみを次第に考慮するようになってきているのである。その理由は、森羅万象の客観的な「事実」としての痛みや苦しみが認識できるからではなく、むしろ、たとえ意見の相違が起こる余地を残す見方でも、その痛みや苦しみを無視するよりは、それらを大雑把に見積もることのほうが、より良い社会を築けるとわれわれが考えているからである」P73

「十分に自覚すべきことは、われわれの実際に行っていることは(痛みや苦しみに関して)暗に規範的判断をすること、市場の金銭的評価の報告ではなく、社会が「評価」しようとすることについてのルールを作ることだ・・・あらゆる証明の負担には共通の経験を反映すべきである。すなわち、環境問題におけるわれわれの経験は、絶えず、われわれの行為が当初の予測以上に、より長期的でかつ広範囲におよぶ損害を引き起こしてきたことの発見であった」

「「見積もる」という推測的な性格を考えれば、またそれを含む場合の「適宜のバランス」のとり方が大雑把であることを考えるならば、実際には、法−操作主義的な見方からよりは、社会的−精神的な見方からのほうが、より重要であろう」P74