レジュメ:05/18/99
デカルト、メトリ、ホッブスのレジュメ
文責 奥野 国広
1 精気とは一体何なのか。その働きを示して下さい。
神経は全て脳からでてくる細い糸または細い管のようなものであって、その内部には脳と同じく極めて微細なある空気または風を含む。それは動物精気と呼ばれる。(p.160~161)
それらの運動は、また精神の介入なしに、精気をとりわけある筋肉の方へ流れさせて、肢体を動かすこともできる。(p.162)
すなわち、精気の運動に起こるあらゆる変化によって、精気が脳の孔のあるものを他よりも大きく開くようになることがありうる。(p.163)
精神の情念とは、精神の知覚、感覚、情動であり、特に精神に関係づけられるところの、かつ、精気のある運動によって引き起こされ維持され強められるところのそれらである。(p.165)
精神は真に身体全体に結合しているものであって、精神が身体のある部分だけあって他の部分にはないというの正しくない。.(p.165)
血液であるとか酸素であるとかそのようなものを抽象したものを精気と呼ぶのではないでしょうか。血液などのように体内に流れる生きる力というようなもの。
2 ”人は時に”喜び”をもって”痛み”を受けることもあり、また喜べぬ”快さ”を感じることもある。”(p.176)とはどういうことか。また、あなた自身の具体的な例を示して下さい。
われわれの幸福と不幸とは、主として、精神のうちにただ精神自身によってのみ引き起こされるというこの点で、内的情動は、精気の何らかの運動に常に依存する情念とは異なっている。そして、これら精神の情動は、それらに似たもろもろの情熱としばしば結びついてはいるが、またしばしば、別の情念とも一緒になりうるし、さらには自分とは反対の情念から生まれることさえもありうるのである。(p.177)
たとえば、ある夫が妻の死を悼みながら、しかも(時に実際そうであるように)生き返るのを見たら内真意や泣きになるような場合、葬式の道具や常日ごろ一緒にいた人の不在が引き起こす”悲しみ”によって胸が絞め蹴られることはありうるし、”愛”や”憐れみ”の残りが、彼の想像に表れて、彼の目から本当の涙を流させることもありうる。(p.177)
内的情動は常にその”出所”が同一であるために様々な感情と結びつきやすいということです。さて、ボク個人の経験としてはたとえば、誰かがけがをしたと聞いたときなどはこのような感情が生まれます。彼(もしくは彼女)のけがの程度を気にかけながらも(当然これは真剣に思っていますよ)、何かある種の爽快感を感じてしまいます。一体どういうことなのでしょうか。けがをした本人との関係を考えたとき、その怪我の度合いは深刻でしょう。もしかしたらその人との付き合いはこれっきりで終わってしまうかもしれないという不安なんかも生まれたりします。その上で感じる爽快感と言ったものは別に他人の不幸が面白いというだけではなく、無意識的なものです。なぜあんな感情が生まれるのでしょうか。ボクだけが特殊なのでしょうか。
3 豊かな人生を送るためにはどうすればよいでしょうか。
なお、精神は精神独自の快楽をもちうる。しかし、精神が身体と共有する快楽について言えば、それらは、全く情念に依存するものであり、したがって、情念にもっとも良く動かされる人間が、人生において快さをもっとも良く味わうことができるのである。確かにこういう人間は、もし情念を良く用いる術を心得ておらず、かつ運にも恵まれない場合には、人生においてまた最大の苦さを見いだすことがあるかもしれない。しかし、知恵の主要な有用性はまさに次の点に存するのである。すなわち、自ら情念の主人となって、情念を巧みに処理することを教え、かくて、情念の引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、さらには、それら全ての悪からかえって”喜び”を引きだすようにさせることである。(p.181)
4 メトリにおいて、機械的、機械を、どのような意味で使っているか考えてください。(もしくはどのような人間の機能を機械に還元しているか)
「もっとも立派な身体組織を持った人間、自然が恩恵をくみつくしてくれた人間が、他の者を教育したのであろうと考えなければならない」P225
「人間の精神生活を論じたすべての著者は、人間が自然から享けている長所を、尊重すべき長所の列に置かず、反省と努力の挙句に獲得される才能だけを並べているが、それは無益の沙汰である」 P226
「人間が動物にすぎないこと、ないしはゼンマイの集合にほかならず」P228
メトリによれば、学者が困難な計算をしたりすることは動物が芸をすることとかわりのないことであるとし、我々人間や動物は機械であると述べている。これは、自然から授かった先天的な能力と、人間が努力によって身につけた後天的な能力を、すべての始源は自然であるという考え方から同等であるということである。つまり、人間を機械と言い切ってしまうことの意味は、人間が自らの努力によって得ることのできた能力を重視し(この能力も始源をたどれば自然からきている)、自然から授かった能力を軽視することを批判することである。自らの努力によって手に入れた能力を、まさしく自分の努力によって手に入れたと思いこんでしまうことにより、自然の恩恵を忘れることに警告をしたのである。しかし、人間の努力によって得られた能力を決して否定しているのではない。それらの能力は先天的な能力と同等におかれている。あくまで、人間だけによって能力を獲得したということを否定したのである。
5 人間が精神を持ち、知識をもつに至った過程を述べてください。
「直感認識にのみ制限されて当時の人間は形と色をみたにすぎず、その間になにものも識別することができなかったのである」P224
「言葉が、言語が、法律、科学、美術が生まれてきた。以上の物によってついにわれわれの精神という天然の金剛石が磨かれだしたのである。」P224
「言葉は一人の者の口から、他の者の耳を通って、脳に達する。この脳は同時に、目を通して、物体の形を受け入れる。言葉はこれらの物体の任意の記号なのである」P225
「これらの有り難い最初の天才の名は時の流れの夜の中に消え去ってしまった」P225
「彼らの想像力の構造に依拠する運動により、従って次に各々の動物に特有な自然にでてくる音声によって、彼らの新しい感情を表現しようと試みたのである。彼らの驚き、喜び、無我夢中の気持ち、ないし欲望の自然な表現である」P226
人間は、言葉を得る以前は、色と人間は形と色をみたにすぎず、対象を個別に識別することができなかった。その中で、人間は感情を表そうとする欲求の中で言葉を習得し、精神が磨かれていったが、それに加えて精神が磨かれるのは、言語、法律、科学、美術によってである。逆をいえばこれらを持つことが精神を持つことといえるのではないだろうか。言葉を習得し精神が磨かれていくにつれて、言語、法律、科学、美術もうまれ、さらに精神が磨かれていっが、最初に言語を持つことによって、あらゆる対象を言葉によって記号化することで認識することができるようになった。これによって、人間は知識を持つことができたといえる。
6 ホッブスにおいて、人間とその他の動物とを区別する物について考えてください。
「人間に特有な理解なるものは、自分の意志を理解するだけでなく、事物の名辞が連結され組織されて、肯定否定その他の言葉となることによって、かれの概念や思考をも理解することにある」P267
「なぜか、またはいかにしてかをしろうとする意欲は、好奇心であって、これは人間以外のいかなる生物にも存在しないものである」P268
人間とそのほかの動物を区別する物として、理性と、好奇心と、理解があげられる。理性とは、本能に対するものである。理性を持つことによって、本能からもたらされる欲求を客観的にみることができ、時にはそれに従わないようにすることができる。好奇心とは、何かを知ろうとする意欲であり、動物にそれがないのはその意欲が食欲などの欲求が支配するためである。人間は好奇心を持つことによって、食欲や性欲などの欲求にうち勝つことができる。好奇心は、本能に従わなくなるという意味で、理性のなかに入るものであるかもしれない。理解については、動物にも理解することができるが、人間の理解とはまた異なる。人間の理解とは、認識した対象をいろいろな枠組みに入れていくことによって、自分の認識したものを、整理していき、それによって、人間は自分の観念や思想を理解することができる。
7 デカルト、メトリ、ホッブス、それぞれの人間の捉え方の違いについて考えて
ください。
デカルトの人間観
人間の精神は、能動と受動に分けられ、意志と呼ばれるものはすべて能動であり、我々が認識したものはすべて受動である。受動されるものの中にも神経を介さないものがあり、それを精神の情念と呼ぶ。これは、意志が関与しないものである。情念には六つの情念が存在し、驚き、愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみである。初めてみるものに対しては、驚きが生まれる。これらの情念は、すべて各個人の善悪の判断から生じるものであり、善悪の判断は各個人によって異なる。この個人によって異なる善悪の判断を元にしてそれら六つの情念は形成されていくわけである。善悪の判断は自分によってなされるものであるから、自分が善悪の判断を意識的にできるようになれば人間は情念を左右することができるはずである。これが、デカルトの意見である。
ラ・メトリの人間観
メトリは人間のことを機械であると言い切っているが、機械であると言い切ることによって人間の何を否定しているのであろうか。メトリは、人間のあらゆる能力が自然から授かったものであるとし、先天的な能力はもちろんのこと、後天的な能力さえも自然のものであるとしている。その理由として、すべての根底にあるものは自然であり、後天的な能力を持つのも自然から授かった基盤を元にしているからである。これによって、人間の傲慢さを否定していることになるのではないだろうか。
ホッブスの人間観
ホッブスによると、人間の思考は感覚によってであるとしてる。人間は外部の対象によって感覚を持つということである。ホッブスもまたデカルトと同じように、善悪の判断によって対象を判断するというところで一致する。その善悪の判断が絡み合うことによって熟慮がしょうじて、そこから意志と呼ばれるものが生じる。