◎ロック『人間知性論』
◎ヒューム『人性論』
◎カント『人間学』
「原典による心理学入門」南博(講談社学術文庫)
発表者:万仲・吉本
05/25/99
レジュメ
1.ロックの言う「心」とは何か、その働きを念頭において説明してください。
引用
「心はその推論機能を行使する材料の観念と言語を備えるようになる。(p.278)」
「思考する間に心が向けられるのは心にある観念であるから、疑いもなく人々は、…いくつかの観念を心に持っている。(p.280)」
「…霊魂が内省し考察するようになると、外のものから得ることにできなかった他の一組の観念を知性に備える。それらは…私たち自身の心の一切のさまざまな働きである。(p.282)」
「この源泉(内省)のもたらす観念は、心が自分自身の内の自分自身の作用を内省して得るようなものだけだからである。(p.282)」
「人間の英知の最初の能力はこうである。すなわち、心は外部対象によって感官を通じて心に作られる印銘にせよ、これを内省するとき心自身の作用によって作られる印銘にせよ、そうした印銘を受けとめるように仕組まれているということである。(p.283)」
ロックの言う「心」は、推論をしたり、観念を持っていたり、内省したりする。さらに、人間の英知の最初の能力を持った部分とされており、ここに動物との区別があるのであろうと推論することができる。したがって、ロックの言う「心」は現在の私たちにとっての「脳」と同じようなものであると考えることができる。また、引用された「人間知性論」には身体については全く触れられてはいないが、上記の引用からロックもまた心身二元論の立場をとっていたのではないかと推測することができると思う。
2.ロックの言う「観念連合」とフロイトのいう「無意識」との共通点と相違点をそれぞれ挙げてください。
引用
「一体誰にもせよ、他人の意見や推理や行動の内に、自分にとって奇妙に見えるし、また、それ自身真実に常軌を逸しているような、ある事物を観察しないものはまずいない。誰でも、自分自身の[意見や推理や行動]と少しでも違えば、こうした種類のごくささいな欠点でも、他人の内にすぐ目ざとく見つけて、理知の権威によってすぐさま難詰するだろう。ところが、その人も、自分自身の主張や行為では、はるかに大きな反理知をおかしているのであり、[しかも、]これを決して看取しないし、これを納得することは、たとえ全然でないまでも、非常に難しいであろう。(p.288)」
「観念連合」と「無意識」の共通点としては、合理的には説明のつかない人間の行動を何とか合理的に説明するために作られた考えであることである。
フロイトは、無意識が言語表象を獲得することとによって前意識化し、実際に人間の行動として現れることから、合理的でない行動が生まれるとした。一方ロックは、「間違った」観念の結合によってある観念が知性に入ってきたときに、全く何の関係も持たない他の観念がそれにくっついて知性に入ってくることによって、「狂気」と呼ばれる理知に反する意見や推理や行動が生まれるとした。
観念連合が形成される理由として、ロックは偶然と人間のそれぞれの傾性や関心や、教育、またはその人の習慣を挙げた。観念連合の例としてロックは共感や反感を挙げている。共感や反感が生む諍いや争いごとはこのゆえに観念連合が生むものであるとロックは考えていた。すなわち、自分と相容れぬ考えを持っている人(例えば宗教など)であっても、それは「間違った」観念連合の結果であり、それを持っていることはその人に責任のあることではない。ここに彼の寛容の精神の源を見ることができると思う。
3.ロックの見方からすると、「神」という観念はどのようにして形成されるでしょうか。説明してください。
引用
「これ程遠くない人々の生活や議論に注意して気をつけてみても、高い文明の国々で多くの人々の心に神性者なるものが非常に強く明確に印銘されているわけではなくて、無神論の嘆きが説教壇から聞かれるのも理由がなくはないと、そう恐れるのは当然すぎるほどだろう。」(P.279)
われわれは、経験からしか観念を形成することはできない。つまり、「神」という観念を形成するためには、「神」を経験、もしくは観察する必要がある。
しかし、そのようなことは可能なのだろうか?
それはまさに、観念連合によって形成されるのではないだろうか。聖書や教会や大人たちからの教えなどを通じて、習慣によって形成されるものなのではないか。
4.自然学と人間学の差異を述べて下さい。(P.299などを参考にしてください。)
引用
「人間学が人間学そのものに与え得る唯一の強固な根底は経験と観察とに存しなければならない。」(P.297)
「それらの学問・技芸は一つとして経験を越え得ず、経験という典拠を根底とせぬいかなる原理をもてえないのである」(P.299)
「私がある状況における一物体の他物体に対して及ぼす結果を知るに当惑するときは、その二物体を問題の位置においてそれから起こる結果を観察しさえすればよい。しかるに、同じ様式をもって精神学に起こるいずれかの疑問を(はらそうとして)私の心を考察すべき精神状態に等しくすれば、かように内省しあらかじめ考えたため、心の自然的原理は明らかに作用を阻害され、当面の現象から正しい結論を作り難くなってしまうに違いない。」(P.299)
自然学では、ある現象を考察するときに、同じ状態を再現して観察することができるが、人間学(精神学)ではそれは不可能である。なぜならば、自分がある実験をしようという意図が入り込んでしまうため、同じ状態での再現が難しいからである。
5.「私は告白しなければならないが、…ということだけである。」(p.313)とヒュームは断言しています。ここにヒュームの根底的な発想の仕方があると考えられますが、それはどのようなものでしょうか。
引用
「いかなる原因がわれわれに物体の存在を信じさせるようにするのか、と問うのは構わないが、しかし、物体があるのかないのか、と問うのは無益なことである。(p.294)」
「私は告白しなければならないが、その人とはもはや手を携えて論及することができないのである。かような人に対して私の許容できる全ては、私と同じくその人も正しいかもしれなく、二人はこの点で本質的に異なる、ということだけである。(p.313)」
ヒュームは信念とは習慣から来るものであるとした。そしてその習慣は心の普遍的な法則であり、それから逃れることはできないとした。人によって習慣は異なるし、そのゆえに、自分と異なる信念を持つ人は存在しうる。そこに相互了解の可能性はない、とヒュームは断言した。
では、ヒュームのこの考えと鎌田ゼミのキーワードである「共同性」はどのように関わるのであろうか。はたして相互了解不可能な自己と他者の間に「共同性」を築くことはできるのであろうか。ここにロックの偉大さがあると思う。ロックのいう「寛容の精神」は、たとえ了解不可能な他者がいても、その他者を自己の了解可能な世界に取り込もうとするのではなく、その反対に了解不可能のものとして断絶を宣言するのでもなく、了解不可能なまま「手を携える」ための知恵だったのだと思う。この延長上に共同性は存在するのだと思う。
6.「習慣」とはどのようなものですか?説明してください。
引用
「私たちの観念には、相互に自然の対応と結合のあるものがある。・・・偶然あるいは習慣に起因する別の観念結合がある。それ自身には少しも同類でない観念がある人たちの心で固く合一して、分離することが非常に難しいほどになる。」(P.288to289)
「習慣は、意思決定や身体運動の集成ばかりでなく、知性の思考集成まで定めるのである。」(P.289)
「一体我々は、数々出会う数個の事物のあいだに類似をひとたび見出してしまえば、量および質の程度にどれほどの相違を観ようと、その他の相違が事物のあいだにどれほど現れようと、すべての事物に同じ名称を当てはめる。そしてこの種の習慣を獲てしまった後は、この名称を聞けば同じ名称を有する事物中の一つの観念が心に甦り、想像はあらゆる特殊な事情および割合をもったままで該観念を思うのである。」(P.307)
「習慣的な性質の根底には自然の素質が存するのではなくて、単なる機会原因があるだけだからである。」(P.358)
ロック・ヒューム・カントいずれも習慣は事物の自然的結合によっては生まれえないような結合を事物のあいだにつくるものであると言う。それはつまり、人間による意味付け、しかも根拠を自然の因果性などに求めない人間による対象への一方的なものを意味する。
7.「生理学的見地」と「実用的見地」とはそれぞれどのようなものですか?(P.332などを参考にしてください。)
引用
「人間がそれらの知識や練達を役立てうる世間の内で、最も重要な対象といえば人間である。」(P.331)
「人間についての知識に関する体系的にまとめ上げられた理論(人間学)は、生理学的見地におけるものであるか、あるいはまた実用的見地におけるものであるかのいずれかでありうる、−−生理学的人間知は、自然が人間をどんなものにしようとしているかという、その当のものの探求をめざし、実用的人間知は、人間が自由に行為する存在者として、自分自身をどんなものにしようとし、あるいはすることができ、またすべきであるかとうその当のものの探求を目指している。」(P.332)
「このような人間学は、学校をすませた後で得られねばならぬ世間知とみなされる限り、元来それは、世の中の諸事象、・・・広汎な認識を含んでいるとしたところで、だからといってまだ実用的だと呼ばれうるわけのものではない。そうではなくて、これが世界公民としての人間の認識を含んでいてはじめて、実用的といわれうるのである。」(P.333)
*「人間は、その営みにおいて、動物のごとくもっぱら本能にしたがって行動するものでははないが、さりとてまた理性的な世界公民のように彼らのあいだでとり極めた計画にしたがって、全体的に行動するものでもないから、計画的な(蜜蜂やビーバーなどのような)歴史が人間によって作られ得るとは思えない。」(『世界公民的見地における一般史の構想』「啓蒙とは何か他四編」P.24)
「実用的な見地に立ってまとめ上げられた人間学というものは、読者たる公衆にとり、次のような利点を持っている。すなわち、実践的なものに関係し観察に基づくあれこれの人間の特性が、そのもとに配列されうるような題目を完備することによって、いかなる特殊なものをもこれを人間学に属する部門に加えるため、独特のテーマとするという誘因や勧告が読者たる公衆に与えられるということ、・・・万人のためになる学問の成長が促進せられ速められるということである。」(P.335to336)
生理学的見地とは自然が人間をどのように規定しているか、ということを追究するものであり、実用的見地とは人間が人間自身をどのように規定するか、を追究するものである。実用的なものは、ただ単に様々な事象に関する幅広い認識を含んでいればよいというものではなく、世界公民としての人間の認識を含んでいる必要がある。ところで、その世界公民としての人間とはどのようなことを指すのだろうか。「・・・理性的な世界公民のように彼らのあいだでとり極めた計画にしたがって、全体的に行動するものでもないから・・・」(『世界公民的見地における一般史の構想』「啓蒙とは何か他四編」P.24)ここに示されているように、自分達の行動を自分達で計画しそれを実行する、つまり自律した人間ということではないだろうか。
8.「構想力」について説明して下さい。
引用
「構想力とは対象が現前していなくても直観をなしうる能力であって、生産的であるか再生的であるかのいずれかである。」(P.336)
「純粋な空間直観および時間直観は前者の根源的な描出に属する。他の総ての直観は経験的直観を前提としており、この経験的直観は、それが対象に関する概念と結合せられ、かくて経験的認識となる場合には、経験と称せられる。」(P.336)
「感官からする感覚の合成されたものは、構想力によって作られうるものではなくて、根源的には感官能力から引き出されるのでなくてはならない。」(P.337)
「こういった一連の事柄は、悟性に材料をあてがって悟性の概念に(認識のため)内容を与える構想力が、自らの(創作した)直観が現実の知覚と類比のものであるところから、かの概念に実在性を与える能力のように思われる、ということに基づいている。」(P.339)
「連想の法則とは、経験的な諸表象がしばしば相次いで継起すると、その結果として、その一方の表象が作られれば他方の表象もまた生ぜしめられるという心の習慣を引き起こすものだ。」(P.340)
カントは人間の認識は、まず対象によって触発されることで人間は表象を受け取る。この能力を感性といい、感性のみが人間に直観を与える。また概念による認識能力を悟性という。そこでは、様々な表象が共通の表象のもとに集められ、秩序を与えられる。さてそれでは構想力はどのようなものかというと、対象が現に存在していなくても直観的に表象する能力であり、その表象を悟性に渡し、悟性概念に内容を与える作用を持つ。つまり、構想力は感性に属する自発的な能力である。
9.「趣味」について、特に「快」と結び付けて説明してください。
引用
「趣味とはその後の本来の意味においては、先に述べておいた如く、飲食の際に特定の溶解した物質のために特殊的に触発されるという、ある器官の特性である。」(P.348)
「趣味という語は、私自身にとっての感官の感覚にしたがってばかりではなく、あらゆる人に妥当すると考えられるようなある規則にしたがって、選択する感性的判定能力とも見なされる。この規則は経験的なものであることもできる。しかしその場合には規則は真の普遍性に対し、したがってまた必然性に対し要求をすることができない。」(P.349)
「しかし美味であって、その規則がア・プリオリに基礎づけられなければならないものもある。というのもそういう規則は、ある対象の表象が快または不快の感情に関して以下に判定さるべきかという必然性を、従ってあらゆる人に対する妥当性を告げるものだからである。」(P.349)
「趣味(選択の)すなわち美感的判断力においてはしかし、対象についての適意を生ずるものは、直接に感覚(対象の表象の実質)なのではなくて、自由な(生産的)構想力が創作によってこの実質を組み合わせる仕方、すなわち形式なのである。なぜならばただ形式のみが、快の感情に対する普遍的規則への欲求をなすことのできるものだからである。」(P.350)
「趣味とは普遍妥当的に選択するという、美感的判断力の能力である。」(P.350)
「趣味は構想力において外的対象を社会的に判定する能力である。・・趣味による選択(美しいものの)が単なる感官の感覚による選択(単に主観的に気に入るもの)すなわち快適なものの選択から区別されるところのものであるが、それは法則の概念を伴うものである。なぜならこの法則にしたがってのみ、適意の妥当性は判定するものにとって普遍的になりうるからである。普遍的なものの表象の能力はしかし悟性である。したがって趣味判断は美的判断であるとともに悟性判断である。」(P.350to351)
趣味とは結局のところ、悟性による判断である。
しかし、その判断が快・不快とという主観的な規定と結びつくときには、それは普遍妥当的なものではない。趣味が普遍妥当性を持つという意味は、対象に対する感覚ではなく、構想力がその表象をいかにして結び付けるかという形式を表わすということである。
10.「感性的な快について」に、カントがどのように「快楽」を捉えているかが書いてあると考えられますが、それはどのようなものでしょう。特にデカルトと対比して説明してください。
引用
「快楽とは感官による快である。(p.344)」
「それら(快楽と苦痛)は…獲得と喪失(+と−)のように対立している。(p.344)」
「生(動物の)とはしかし、すでに医者たちも記していたように、両者の対立関係の不断の営みである。(p.345)」
「だからいかなる快楽にも苦痛は先行しなくてはならない。(p.345)」
デカルトは、自らが情念の主人になることで精神と身体とが共有する快楽を自らの力でもってコントロールできると考えた。そのように情念を支配することが人間の知恵であるとした。
一方でカントは、人間の生においては、快と苦痛が交代して現れるのだとした。快と苦痛は相対的な存在であるから原理的にそれらは交互に現れるものなのである。快楽があるから苦痛があるのであり、苦痛があるから快楽があるのである。カントにとっての快楽は生を促進させる感情であり、苦痛は生を阻止する感情であった。
<<提題>>
1.客観性とはどのようなものだと考えられますか?
一般に科学は客観的なものであると考えられているが、それを「客観的なもの」と呼び、「客観的なもの」を考えているのは人間であり、その点ではどこまで入っても行為するのは人間なのであるから、個としての人間が持つ主観というものがどうしても入りこんでしまう。純粋に客観的なものがあるとすれば、そこに人間の存在は許されない。
2.人間はどのようにして、言語を習得(獲得)するのでしょうか?
言語の習得の過程は、まず音のまねから始まるのではないか。その音には何の意味も含まれていない。ただ母親なり父親なりが発する音と同じような音を発しているだけである。その音を「内省」することによって、覚えてきた音に意味を与えていく。この延長上に言語の習得があるのではないか。