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マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
発表者:堀川、万仲
06/29/99

講義録
文責:吉本陵

1.について
伝統的資本主義・・・心理的なもの。すなわち、労働が何かの目的になっている。
近代以降…労働が自己目的化した。
これが伝統的資本主義と近代資本主義の違いである。

2.について
合理性・・・一義的に決定できないもの

 人間は自分の欲求を満たしながら生きていくから、欲求にしたがうのが合理的なのだともいえるが、禁欲的なものが合理性につながりうる。このことをウェーバーは指摘しようとしていたのだろうか。

 禁欲といっても中世以前と近代以降ではその性格に違いがある。中世の禁欲には目的があった(例えばその後に永遠の至福がある)近代の禁欲は自己目的化していった。

3.について
「最後の審判の前の日でもりんごの種をまく」…労働に付随して起こることが目的なのではない。

禁欲の意味とは何なのか?共生を念頭において考えると・・・
世俗的禁欲と宗教的禁欲
功利主義…社会的な統一性をとらないという社会的統一を持つ←人によって欲求は異なるから。しかし、このルールの下では社会はバラバラになる。統一を保つことは不可能になる。なぜならば、自己を中心に据えることが積極的に肯定されるからである。したがってやはり社会的統一を保つための一定のルールなり規範なりは必要である。
 禁欲の意味がここに現れる。すなわち禁欲でもって社会的統一を図るのである。自己中心は共生原理を破壊する。この暴力的な破壊を押さえるのが禁欲なのである。すなわち禁欲は共生の維持機構として機能する。
(ちょっと視点を変えてみると…)
神は愛である→その場に共生が生まれる。
 これら(禁欲と愛)は同じことを目標としているのではないか。すなわち愛も禁欲も、前者はポジティブなものとして、後者はネガティブなものとして共生のシンボルを表しているのではないか。

近代では、労働自身を目標とすることによって共同性の崩壊を押さえる。
このようにして、禁欲と天職とを結び付ける場が生まれたのではないか。

禁欲としての共生
資本主義の理念と結びついた。
 神の見えざる手によって個人が自由に行為すれば、共同性は築かれるはずであったが、それは失敗に帰した。何故であるか…このことが、ウェーバーのねらいであった。
ウェーバーはこのことをこの本のテーマとした。

Q.禁欲と労働の関係はどのようなものか?
労働・・・自己発現としての働きであり、個の否定、自己中心の否定(旧約)につながるものである。
旧約において…
アダムとイヴの話を考えてみると、
 彼らは自己中心的であった。すなわち身勝手生きた(禁断の果実を口にした、すなわち普遍規範を見誤った←共生の否定)ために(ここに原罪が生まれる)、パラダイスを追われる。そして死が生まれる。子を産む必要が生まれ、労働をする必要が生まれる。
←旧約における労働の意味付け

4.について
貨幣と資本
資本は純粋に量的な概念で、対象には関心はほとんどない。

5.について
タイプ 還元できない要素があるからタイプという考え方を用いる

理念型について
 「三角形の内角の和が180度」とすることが理念型。つまり、現実的にデータを取ると誤差が生じるために、内角の和は180度になることはない。そのように、「資本主義」や「民主主義」と言う言葉を社会学で使うとき、理念的(理想としての)にそれを述べるのが理念型である。では、理念型はどのようにして作のか。それは作る側の洞察力によるのである。「民主主義」という理念型を作る時は、民主主義とはどのような構成要素を持ち、それらがどのような関係にあるのかを洞察し、概念構成を行うのである。
理念型においては、本当にそこで述べられたとおりの物が存在する訳ではないが、理念と現実の違いを尺度で示すことによって、時空を限定した場合には他との比較をも可能になる(理念形は時空で変化するため)。

行動主義→動物が対象 植物は?ここに思想としての生態学が生まれる

提題
 プロテスタンティズムの倫理にしたがっても現在の日本の不況は克服できない。なぜならば、お金が循環しないから。

倫理…個人の倫理か、社会の倫理か
 とうの昔に「個の倫理」は崩壊した(道徳は崩壊した)。とすると「私はいかに生きるべきか」と問うても答は存在しない。問うべきは「私たちはいかに生きるべきか」なのである。

マルクス経済の限界
 近代資本主義と全く異なったメンタリティーへ、近代資本主義のメンタリティーをもってたどり着くのが共産主義。そこに限界がある。