学術的自己紹介
まずはじめに、自分がなぜこのゼミに入ろうとしたのかについて、述べようと思う。このゼミに入ろうとした理由は一つだけではなくいろいろあるわけだが、もっとも大きかったものは、自分を厳しい環境に起きたいという自己鍛錬というものであった。ゼミの選択にあたって、どのゼミにはいるかで自分の人生が大きく代わるものであると思い選択には心を悩ませたが、安易に大学生活を過ごすことはできないと考え、ならば、充実できるゼミに入ろうと心を決めた。また、自分の基盤となる自身がほしかったというのもある。そして、鎌田ゼミに入ったわけであるが、まず驚いたことは周りの人々のレベルの高さである。このゼミに入るものはそれなりのモチベーションを持って入ってきているわけであり、その分他のゼミよりも高く、やるべきことは多大な量であるにもかかわらず、それをこなしている。そのような環境に自分をおいてみたとき、自分の甘さというものが見えてくる。そのような自分についての発見は自己嫌悪に陥るものであるが、しかしそのためにこのゼミに入ったのであり、安易に大学生活を過ごしていたならばそれを味わうことはなかったであろう。そのようにして、二年を過ごし終わったときに、自分の自信に必ずなっていると思うし、そう思うからこそ、このゼミでやっていこうと思う。
以上が自分がゼミを選んだ大まかな動機である。次に、学術的関心(問題発見と解決の方向性)について春期の授業のなかで思ったことを以下に示そうと思う。問題発見において大切であることは問題意識であると考えている。様々なものに触れるなかで、なにを問題とするかは問題意識の持ちようである。常になにに対して疑問を持っているか、関心、興味を持っているかで、問題発見はかわってくる。このゼミでは多量の文献を読んで行くわけだが、その中でいかに問題意識を持って読むかで自分がえるものが大きくかわる。例えるなら、アンテナをたてなければ電波を受信することはできない、つまり問題意識がなければ問題も発見できないということである。この鎌田ゼミにおいて、すべては自分にとって目新しい未知のものばかりである。その中で、どのようにその問題意識を自分のなかで作るかというのが、春期には苦労した。文献を何度もよんでいくなかで、問題を発見することはできるが、まず最初に読む足がかりと言うものが自分にはなく、その辺で当惑するところがあった。解決にあたっては、このゼミにいて納得できるものがなかなかなく、常にあらゆる可能性を考えさせられる。そのために自分のなかで意見がまとまらず、どれだけのことを学んだのかといわれると言葉に詰まる。しかし、すべてがまとまっていないわけではない。それなりにまとまっているものはまとまっている。そうしてえた知識、理論をいかに日常に照らし合わせてみることができるのかということを考えるが、その辺は理論と実践のかねあいが問題ではないかと思う。理論を実際の行動に移すことはかなり難しく、その間には大きな差があると思う。そこに落とし穴という自分では陥りやすいものが存在する。それについて、授業で記憶に残っていることがあるが、それは知識や理論をたとえ実践していなくとも、それは語ることができるということである。これはつまり、口ではえらそうなことはいくらでもいえてしまう恐ろしさである。語れることが、すぐに自分ができることではないにも関わらず、そのような錯覚に陥いる。すべての事柄を達観視し、事情を知りもしないのに達観視することによって、客観視し理解していると思いこみ、さらにそれによって優越を感じようとする。また、あらゆることを強引にその理論に結びつけようとすることがある。自分が、少し知っているばかりに、実際結びつくことではない事柄も結びつけてしまう。以上のような事柄を考えながら春期を過ごしたが、これは引き続き秋期の課題になっている。いかに、傲慢にならず謙虚であるべきかといったところか。
問題発見と解決の方向性について今考えているところはこんなところである。これから、あと一年半あるわけだが、その一年半のなかで、どのように自分の能力が変わっていくかということが、気がかりであるが、楽しみでもある。このゼミで多くをえようとするならば、自分の基準でできる限りのことをしておかなくてはならない。はたして、それが自分にできるかどうか一抹の不安を感じるが、それをしない限りは自分の基盤、自信にはならないであろうから、やっていくつもりである。