高等教育における聴覚障害学生支援 1.聴覚障害学生支援の必要性 聴覚に障害のある学生が大学などの高等教育機関で学ぶ際、通常の音声によって伝えられる授業の情報を受け取ることができないなどの困難が生じます。そのため、多くの聴覚障害学生が、大学や短期大学での授業を振り返って、以下のような感想を残しています。 「先生方が一方的に話をする大学の授業では、わからないのが当たり前でした。特に教科書を用いない授業では、何の勉強をしているのかさえもわからず、ただ先生の様子を眺めているしかありませんでした。中でも、授業の中で、教室がドッと笑いに包み込まれる時間が一番苦痛でした。みんなが楽しそうに笑っているのに、自分だけ何のことだかわからずに下を向いている、この時の独りとり残されたような寂しさ。自分も聞こえる学生と同じように授業を聞きたい、何度もそう思っていました。」 このことは、多くの聴覚障害学生にとって、高等教育機関で行われる授業が支援なしにはわからないものであり、板書の文字やスライドなど数少ない手がかりを必死に追い求めている状態にあることを示しています。これが、小学校低学年レベルの授業であればどうでしょう? 先生は重要なポイントをひとつひとつ丁寧に板書をし、児童の様子にあわせて、ゆっくりと話を進めることでしょう。このような授業であれば、聴覚障害児も何とか周りの状況についていくことができるかもしれません。しかし、そうした低学年の授業でさえ、周りの児童の発言や先生の説明の詳細は聞きとることができず、たとえ要点はわかっても必ずしもその場に参加できているとは言えないのです。ましてや高度な専門知識が伝達される高等教育機関の場合、聴覚障害学生が学習遂行上最低限必要な情報さえ得られない状況にあるのは想像に難くありません。 このような聴覚障害学生の状況に対して、ノートテイクや手話通訳などの手段を用い、授業を聞く権利、授業に参加する権利を保障する取り組みのことを「情報保障(講義保障)」と言います。本シートでは、情報保障をはじめ、聴覚障害学生が大学生活を送る上で必要な支援の内容とその考え方について説明します。 2.聴覚障害学生の感じる困難 まず、聴覚に障害のある学生が大学生活上感じやすい困難には、先述の授業における問題以外に以下のような内容が挙げられます。 (1)友達との会話に入れない 新しい友人と出会い、人間関係を広げることも大学生活上非常に重要な要素となりますが、友人同士の些細な会話に入れず、仲間作りが難しいことがあります。 (2)討議についていけない 学年が上がるにつれ、学生相互の意見交換が重要になりますが、こうした討議への参加が困難になります。 (3)連絡や放送がわからない 口頭による試験や休講の連絡、校内放送の内容がわからず、予定の変更などに気づかないことがあります。 (4)連絡が取れない メールの普及によってかなり状況は改善されてきましたが、電話による音声会話が困難なため、間接的コミュニケーションによる連絡には不便さが残ります。 (5)非常時の情報が得られない 非常ベルの音や避難に関する情報が伝わらず、逃げ遅れたり危険にさらされたりすることがあります。 この中でも、はじめに述べた講義への参加の困難性は、大学生活上最も大きな問題であり、聴覚障害学生支援の中でも中心の課題になっています。以下では、こうした講義場面における支援の方法について説明をしていきます。 3.情報保障の手段 「音声による情報理解が困難なため、授業で話されている内容がわからない。」 このように聞くと、多くの方々が、ではスライドや資料などの視覚教材を増やせばよいだろうと思われるでしょう。また、これを補完するために「友人にノートを借りたり、授業中資料にない内容をメモしてもらうなどの方法をとればいいのではないか」と考えつかれるかもしれません。実際、授業担当の先生や同じ授業の参加者によるこのような支援は、聴覚障害学生にとって非常に役立つサポートのひとつです。ただ、残念ながらこのような方法だけでは、抜け落ちてしまう情報がたくさんあるのも事実なのです。 たとえば、先生のお話の中には、資料の中には載っていないようなわかりやすい例や、日常的な経験と結びつけた解説、雑談、たとえ話などさまざまな要素が含まれているものと思います。その中には、先生方の人間性や研究に対する姿勢に触れるようなお話があったりもするかもしれません。このようなお話を聞いて、専門分野の内容に興味をもち、これをきっかけに自分自身で勉強を進めるというのが、授業のあり方のひとつなのではないかと思います。しかし、聴覚障害学生にとって視覚教材や友人による手助けだけでは、こうしたある意味重要な要素が伝わらないまま過ぎてしまうことも多いのです。聴覚障害学生の多くが、「内容を理解するだけなら、後でノートを借りればよい。けれどもそれだけでは自分が何のために大学に入学し、授業に出席しているのかわからない。」という意見を述べています。そこで、聴覚障害学生がこうした授業におけるたくさんの情報を他の学生と共有するためにも、先生方のお話やその他の音情報をリアルタイムに文字や手話に変える「情報保障者(講義保障者)」あるいは「通訳者」の存在が不可欠なのです。 このうち、手話を用いて行う方法を「手話通訳」といい、筆記による方法のうち、先生のお話を手書きでルーズリーフなどに記載していく手段を「ノートテイク」、同様の作業をパソコンで行う手段を「パソコン要約筆記」といいます。現在、高等教育機関における授業保障には、これら三つの手段が多く取り入れられています。 4.情報保障の担い手 では、このような授業保障は誰が担当するのがよいのでしょうか? 大学にとって最も手軽な方法は、同じ授業に出席している友人にこうした保障を担ってもらうという方法でしょう。けれども、先生のお話をもらさず伝えるという作業を担当していると、本来その学生が聞きたいと思っている部分に集中することができません。そのため、聴覚障害学生に対して情報を提供できたとしても、今度は保障を担当する学生の授業に参加する権利を奪ってしまう結果になります。ですから、聴覚障害学生に対する情報保障は、授業の参加者ではない第三者が担うのが一般的です。 それも、聴覚障害学生が自分でそうした人を見つけるのではなく、大学として人材を確保し、授業に配置していく必要があるでしょう。なぜなら毎日行われる授業において、誰にどの保障の手段を依頼するか考え、調整することは、聴覚障害学生にとって非常に大きな負担となります。人材の調整には時間がかかり精神的な苦労も伴いますし、先生に配置の許可を事前に得ておくなど大変な作業です。授業に出るたびにその負担を負わせるのは平等ではないと考えるからです。 では、学部や事務が中心となってボランティアの学生を募り、講義に配置するという方法ではどうでしょうか?あるいは、手話サークル等のボランティアサークルが中心となってこのような活動をするという方法も考えられるでしょう。中には、こうした学生同士の支え合いこそが重要であるという考え方もあるかもしれません。 確かに聴覚障害学生をとりまく学生達が、聞こえないという障害について理解し、必要なサポートを行っていくことは非常に重要です。しかし、手話通訳やノートテイク、パソコン要約筆記といった情報保障には、高度な技術と専門知識が必要で、そのような技術を持たない学生では十分な保障ができない場合も多くあるのが事実です。 また、このような学生同士の支え合いによる支援は、保障を受ける聴覚障害学生、保障を担当する学生の両者にとって、負担がかかりやすいという問題があります。聴覚障害学生にとっては、「もっと書いてほしい」などの要望があっても「助けてもらっている」という思いから、自分の気持ちを伝えることができなくなりますし、情報保障を担う学生にとっても、十分に伝えきれないことに対する不安から、保障を担うことが重荷になったりするためです。 そこで、聴覚障害学生とまわりの学生との人間関係への配慮からも、専門性のある第三者を情報保障者として正式に授業に配置していくことが重要です。同時に、単に無償のボラ ンティアではなく、技術に見合った報酬を支払うのも重要な大学としての責務のひとつです。 とはいえ、高等教育機関での情報保障には、非常に高度な専門性がともなうため、全国を見渡してもこれを担うことのできる人材が圧倒的に不足しているのも事実です。そのため、外部に人的資源を求めても、十分に必要な情報保障者を確保しきれないという問題も立ちはだかっています。また、予算の面からも専門的な情報保障者をすべての授業に配置することが可能な大学はまだまだ少ないかもしれません。そのため、最近ではこうした問題の解決策として、大学が主体となって情報保障の養成講座を開講し、ある程度の知識と技術を身につけた学生を授業に配置し、授業終了後一定の報酬を支給する形で情報保障を行う例も増えて きています。このような取り組みは、ある程度の技術を持った情報保障者を一定数確保できるという面で現時点でのひとつの解決策になると思います。ただし、この方法が聴覚障害学生が遺憾なくその力を発揮するための最善の方法かというと、そうとは言えないでしょう。  聴覚障害学生支援先進国のアメリカでは、在籍する聴覚障害学生への支援のために手話通訳者を職員として雇用するのが一般的です。また、近年我が国でもこうした方法で専門性の高い保障を提供する大学も出てきています。すべての学生に対してきちんと伝わる授業を実施すること、これは、本来大学教員あるいは大学全体にとっての責務であるはずです。そう考えると、情報保障者の存在は、聴覚障害学生のためではなく、大学側がこの責務をまっとうするためのひとつの手段であると考えられます。ぜひ、大学の財産のひとつとして聴覚障害学生支援をとらえ、すべての学生が等しく学習できる環境作りを進めていっていただけ れば幸いです。 執筆者 白澤麻弓(しらさわまゆみ) 筑波技術大学障害者高等教育研究支援センター准教授 2007年8月1日第2版 以下クレジット 発行 日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク(PEPNet-Japan) URL http://www.pepnet-j.org 郵便番号305-8520 住所 茨城県つくば市天久保4-3-15 筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター支援交流室 聴覚系WG 内 担当 白澤麻弓 E-mail pepj-info@pepnet-j.org 以下添書き PEPNet-Japanは筑波技術大学の運営による高等教育機関間ネットワークで、文部科学省特別教育研究経費を用いて運営しています。活動にあたっては、一部日本財団の助成によるPEN-Internationalからの支援を受けています。本シートは、アメリカ北東地域テクニカルアシスタントセンター(PEPNet-Northeast)の作成によるTipSheetを基に、PEPNet-Japanが独自に作成したものです。本シートの内容の無断複写・転載を禁じます。