高等教育における手話通訳  ノートテイクが主流であった高等教育での情報保障支援に、最近は手話通訳による支援の取組みを始める所が増えてきています。その背景として、利用学生から手話で情報を受けたいという声が増えてきたこと、ゼミや実習では位置が固定となるパソコン要約筆記よりも手話通訳の方が柔軟な対応ができること、ディスカッションでは、よりリアルタイムに情報が受け取れるので、発言の機会を得やすいなどの理由があげられます。  ここでは高等教育における手話通訳の必要性や手話通訳による情報支援の特徴について考えてみましょう。 1.手話とは (1)手話とはどんなもの? 手話通訳について考える前に、まず手話とはどういうものかを理解しておきましょう。 手話は、ろう者の社会の中から生まれた自然言語です。他の言語同様、複雑な文法や豊富な語彙を備えており、その言語構造は日本語とは異なっています。手の動きにより「単語」や、日本語の50音にあたる「指文字」を表現し、文法にあたる部分は、手だけでなく、上体と眉や口の動きなどで表します。 手話は決してジェスチャーやパントマイムのような記号の寄せ集めではありません。また、国や地域が異なれば手話も異なり、方言や性差、世代差もみられます。もちろん、抽象概念を語ったり、ジョークや皮肉を言い表すこともできますし、手話を使って高等教育レベルの授業を行うこともできます。ただ、特殊な専門領域で、これまで聴覚障害者が進出してこなかった分野では、当然手話の語彙も未発達のままです。このことは聴覚障害者をとりまく社会の問題であり、手話の言語構造とは分けて考えなければなりません。 (2)手話を使う人は? 幼少時から、自然に手話に触れる環境で育った聞こえない人たちは、日常のコミュニケーションに手話を使用するようになります。こうした人たちの多くはろう学校に通います。 これに対し、手話に触れる機会がなく育つ人もいます。これらの人たちは普通学校で学び、手話を使う人たちとの交流はあまりない場合が多いようです。その場合、コミュニケーション方法は一様ではありません。手話は使わずに、補聴器で音声を聞き取り、口話を使う人もいますし、社会に出てから日本語対応手話を身につけて使うようになる人などさまざまです。 そのため、個々の学生のコミュニケーション上のニーズを見極め、それに応じた手話通訳の利用を見当する必要があります。 関連チップシート 聴覚障害教育におけるコミュニケーション方法 2.手話通訳とは (1)通訳とは? テレビなどで、自分の知らない国の言葉を日本語に訳して伝える通訳者を目にする機会がありますね。ここでは、まず、通訳とはどんな作業なのか考えていきましょう。 通訳が必要となるのは、異なる言語を用いるもの同士がコミュニケーションを行う場合です。通訳者はお互いが話を理解できるように、双方の間に立って一方の言語を翻訳して他方に伝えます。 図:通訳過程のイメージ 起点言語である日本語のメッセージを理解する メッセージを翻訳する 目標言語である手話のメッセージを表現する 通訳には、双方の言語を理解する力と表現する力を備えていることはもちろんのこと、理解したメッセージを瞬時に別の言語に的確に翻訳する技術が必要です。そのため通訳者は、高度な知識と技術が要求されます。メッセージを正確に理解するために、日ごろから社会情勢に目を向け、幅広い知識を備えていなければなりませんし、瞬時に言語を翻訳できるための技術の研鑽も欠かせません。 そして、通訳者に課せられた守秘義務を遵守することも大切です。通訳の性質上、特異な場に存在することになることが多く、普段は耳にしないような情報を知ることになります。通訳者として知った内容は、決して他に漏らさないことになっています。 (2)手話通訳の特徴 手話通訳者は、ろう者の手話を日本語に変換して聴者に伝え、聴者の日本語を手話に変換してろう者に伝えるという双方向の変換を行っています。 この時、音声言語間の通訳と大きく異なる点が1つあります。それは、手話通訳者は、話されたメッセージだけではなく、周囲の「音」情報をもろう者に伝えているからです。つまり、手話通訳者は、聞こえる者が耳から得ている情報を、すべてろう者が目で見てわかる言葉にして伝えているのです。そのために、手話通訳者は常にろう者から見える位置に存在している必要があります。 関連チップシート 情報保障の手段 (3)高等教育における手話通訳 高等教育機関は、将来の研究者となる者を育てる場です。講義内容は専門分野に特化し、最先端の情報を取り扱うことになります。学生は授業を受身で受講するだけではなく、自分で研究や発表を行うための自発的な勉強が多くなります。そして、試験やレポートをこなし単位を習得しなければなりません。 手話通訳者は専門分野の授業を理解して、手話に変換する力はもちろんのこと、学生がそこで何を学ぼうとしているのかを知り、それを確実に伝える技術が求められます。 また、事前に渡された資料を読み込み、通訳に臨む前に自分で関連事項を調べたり、勉強できる学力も備えていなければなりません。通訳する授業の形態もさまざまですので、状況に応じた柔軟な対応も必要になってきます。 このように、高等教育機関で通訳を行うためには、とても高いレベルの技術が必要になります。 関連チップシート 手話通訳による情報保障 2.手話通訳を利用した授業 では、高等教育機関で手話通訳による情報保障を行うには、どのようなことに注意して進めればよいのでしょうか。 (1)手話通訳派遣の手順 まず、通訳者を依頼する方法を検討します。依頼の方法は地域の派遣機関に依頼する、または学内で独自に通訳者を探すなどがあります。詳しくは「手話通訳による支援」のTipSheetで解説していますので、各大学・機関の方針や予算の状況を考慮して検討して下さい。 通訳の依頼方法が決まれば、あとはノートテイクなどによる情報保障と同様に、利用学生から要望のあった科目に通訳者が配置できるようにコーディネートを行っていきます。通常は1コマを2人の通訳者で担当します。担当教員には聴覚障害学生への理解と配慮を求める働きかけを行います。 授業が始まる前までに、教員と利用学生、支援担当者は、何が必要か、どういう方法で授業を進めたらいいのかをあらかじめ話し合っておきます。特に授業を担当する教員には、通訳を見ながら授業を受ける学生への資料提示の方法や、話し方の工夫が必要なこと等、できるだけ具体的に説明しておくとよいでしょう。あわせて通訳者への事前の情報提供についても協力をお願いできるとよいですね。 関連チップシート 授業における教育的配慮、学期はじめのコーディネート業務 (2)手話通訳者への情報提供 手話通訳を効果的に利用するには、さまざまな準備が必要になってきます。授業を行う教員だけではなく、利用学生と支援担当者それぞれが行なわなければなりません。 以下、準備が必要な内容を列挙します。 概要をつかむための資料の提供 1)授業のシラバス 授業全体の概要をつかむために必要です。 2)テキスト 使用しない場合は、授業の内容を理解するための関連書物があるかどうか確認します。 3)当日使用する資料等 事前に提出してもらうようにあらかじめ担当教員に依頼しておきましょう。 理解の手がかりへの配慮 1)打合わせの確保 専門に特化した科目では、資料の内容を通訳者が理解するための支援も必要になります。できるかぎり、事前に打合せ時間を取り、ある程度授業内容を把握した上で通訳できる体制を整えます。 2)進行の確認 ビデオの使用、パワーポイントの使用等の情報は、通訳者にとっては、通訳の方法を考える上での大事な情報になります。他にグループでの話合いをするような場合も事前に伝えておくとよいでしょう。 3)他の学生への依頼 ゼミなど学生が発表する時には、資料の提出に協力してもらいましょう。作成が間に合わない場合は、途中経過や過去の発表原稿でも構いません。完璧な資料でなくてもよいので、通訳者が事前に勉強できる手がかりとなるものを提示することを心がけましょう。 4)利用学生との打合せ 利用学生が手話による発表を行う場合は、前もって資料を渡し、できるだけ事前に打合せをしましょう。発表は内容だけでなく、使用する言葉も評価の対象になってきます。自分が使いたい用語や言い回しを確認しておくことで、通訳もスムーズになります。 5)引継ぎ 授業は連続して行われます。次回の通訳者へ当日の内容と次回の予定などを引継ぐ作業を忘れずに行いないましょう。 3.よりよい情報保障を行うために このように、利用学生に他の学生と同じ情報を伝えるためには、多くの準備が必要になります。どれもよりよい情報保障のためには欠かせないサポートなのです。日々の業務の中ですべてをこなすのは大変なのですが、利用学生の学ぶ環境を保障するということを何よりも尊重し、コーディネートを行っていければと思います。 参考「手話文法研究室」http://slling.net/ 市田泰弘 協力 早稲田大学障がい学生支援室 執筆 日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク(PEPNet-Japan) 事務局 2007年8月1日 初版 以下クレジット 発行 日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク(PEPNet-Japan) URL http://www.pepnet-j.org 郵便番号305-8520 住所 茨城県つくば市天久保4-3-15 筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター支援交流室 聴覚系WG 内 担当 白澤麻弓 E-mail pepj-info@pepnet-j.org 以下添書き PEPNet-Japanは筑波技術大学の運営による高等教育機関間ネットワークで、文部科学省特別教育研究経費を用いて運営しています。活動にあたっては、一部日本財団の助成によるPEN-Internationalからの支援を受けています。本シートは、アメリカ北東地域テクニカルアシスタントセンター(PEPNet-Northeast)の作成によるTipSheetを基に、PEPNet-Japanが独自に作成したものです。本シートの内容の無断複写・転載を禁じます。