通訳者の健康障害とその対応 1.はじめに 手話通訳者が通訳する事に関連して生じる健康障害に頸肩腕障害(けいけんわんしょうがい)という職業病があります。ノートテイクやパソコン要約筆記に関しても、腰痛や同様の障害が発生します。ここでは、手話通訳者の健康を守るために、手話通訳者や関係者に必要とされる基本的な知識と予防対策について解説します。 2.頸肩腕障害とは 頸肩腕障害は、手指や腕、肩、頸部の筋肉や関節などに痛みを生じ、進行すると物が持てなくなったり腕が動かせなくなったりする病気です。病気の進行に伴い、精神的にもイライラ感や不眠感や抑うつ感などの症状がでることがあります。初期段階の肩頸のこりや腕のだるさなどの自覚症状は睡眠や休息で回復しますが、十分な疲労回復がはかれない状況が続き、肩や腕や頸部の筋疲労が蓄積していくと、強いこりや痛みを生じ、生活にも様々な影響がでるようになります。手話通訳に関連した症状としては、指や手がうまく動かなくなり手話表現が下手になったり、手話通訳後に手や指が震えたりするようになります。日常生活では、タオルが絞れなくなったり、茶碗やものをよく落としたり、ドライヤーを持って使い続けることが苦痛になったりもします。クーラーや扇風機の冷気や風で気分が悪くなることもおきます。 3.手話通訳における頸肩腕障害問題の経過 我が国の手話通訳者に頸肩腕障害の発生が初めて報告されたのは1984年に札幌市の嘱託通訳者の事例です。札幌市で初めて設置された専任手話通訳者として、多くの通訳や手話講座での指導を担当する経過の中で発症しました。当時、手話通訳者の心身の負担について十分に解明する事ができなかったことや、手話通訳者の健康状態についての調査などが行えなかったこともあり手話通訳による職業病として適切な対応がとられませんでした。1988年に滋賀県の聴覚障害者団体事務所で働く手話通訳者が重度の頸肩腕障害を発症したことを契機に全国規模の調査が行われ、各地の手話通訳者が同じ健康障害で苦しんでいる事が判明し、予防のための研究や取り組みが始まりました。現在では、手話通訳は頸肩腕障害を発生しやすい職業として、手話通訳者を雇用する事業主には特別な予防対策が厚生労働省より指示されています。 4.なぜ手話通訳者は頸肩腕障害になりやすいのか 手話通訳者の体の使い方の特徴には、手話動作に関る筋の使い方と、通訳に関わる頭の使い方があります。手話通訳者に頸肩腕障害が発生しやすい理由を、筋の負担と、頭を使うことに関して生じる負担(中枢神経系への負担)とに分けて解説します。 (1)身体的負担 手話では手や指や腕だけでなく、口の動きや表情も表現方法として用いられます。手指の動きや表情等が聴覚障害者の視野の中で同時に示される必要があり、手話通訳者は、手指を胸の高さで動かすために、腕を宙に浮かした状態で手話動作を行うことになります。しかも、同時通訳なので話し言葉の早さに合わせて、手指や腕を高速で動かし続けます。 私たちは、何か仕事をしていて疲れてくると自然に仕事のペースを落としたり、ふと一休みしたりして疲労の回復をはかります。少し休むことで疲れた体は元気を取り戻し、仕事を続けることができます。また、この休憩は健康障害の予防にとっても大切です。しかし、手話通訳者は同時通訳を行っているため、腕や肩の筋が疲労し「だるさ」や「痛さ」や「しびれ」などのサインを発していても、話し手が休憩するか通訳者が交代することがない限り通訳を止めることができません。こうした手話通訳の特性が筋の過度の疲労を招き頸肩腕障害を発症させます。 (2)中枢神経系への負担 手話通訳者は、「聞き取り」通訳と「読み取り」通訳という性格の異なる通訳を行います。「聞き取り」通訳とは、音声語を聴き取って手話に通訳することです。「読み取り」通訳は、手話を目で観て、音声語で表現する作業です。いずれの通訳も同時通訳ですから、高度で高密度な脳(中枢神経)の働きが必要です。 実験的に「聞き取り」通訳中の通訳者の疲労を調べてみると、10分を過ぎると急速に疲労が強まっていきました。中枢神経が疲労すると「言葉がうまく置き換えられない」とか「聞き漏らす」「読み落とす」状態になります。この段階で、少し休憩できれば疲労が蓄積することはないのですが、一度通訳が始まれば手話通訳者の疲労の状態に合わせて休憩を取ることは困難になります。その結果、中枢神経の疲労が進行します。慢性的に中枢神経が疲労すると、不眠になったり、気持ちが落ち着かなくなったり、イライラ感を生じたり、ものが考えにくくなったり、気持ちがふさぐような精神状態になっていきます。 5.手話通訳者の健康を守るための注意事項 手話通訳者の健康を守るために、通訳者や通訳利用者などが知っておくべき注意事項を示します。 (1)手話通訳作業に関する注意 手話通訳者の頸肩腕障害を予防するためには、長時間の連続した通訳をなくし、一日の作業量を適切に管理して過労を防ぐ必要があります。講演の通訳では20分程度で交替することになっています。あらかじめ通訳内容がわかっている授業でも、1時間を越えて一人の通訳者が行うことは負担が大きすぎるため、交代で通訳にあたる必要があります。「読み取り」通訳の場合も「聞き取り」通訳と同様です。 一日の通訳限度量は、通訳内容や一件あたりの通訳時間により変動します。一般的な目安は、一人の通訳者が1日に担当する件数は2件程度で、長時間にわたる通訳や内容が難しい通訳、緊張度の高い通訳は1日1件です。 通訳者がとる休憩については、心身がリラックスできる条件が必要です。聴覚障害者が同席している場では、聴者との会話であっても手話を交えることや、周囲の聴者同士の会話も手話で伝えることが通訳者のルールになっているので、聴覚障害者と聴者が同席する場での休憩は手話通訳者にとっては休憩にならないことがあります。また、通訳を交替で行っている時、休んでいる通訳者は、交替後スムーズに通訳ができるよう話を聞いたり手話表現を視ることに神経を集中させているので十分な休息にはなっていません。長時間に及ぶ通訳の場合は、通訳者の休息を保障するために3人以上の通訳者が担当すべきでしょう。 その他、手話通訳者に通訳内容をあらかじめ伝えて学習・準備できるようにすること、会議などで複数の者が同時に発言することがないように事前に司会者や参加者の協力を求めること、会話が早すぎないよう配慮を求めること等も通訳者の負担を軽減する上で大切です。 (2)手話通訳環境に関する注意 手話通訳者が椅子に座り、聴覚障害者に面して通訳するようにすべきです。机などを間に挟むと、不必要に腕を上げて通訳しがちになり良くありません。冷風にさらされた場所での通訳や、騒音や周囲の話し声などで音声が聞き取りにくい場での通訳や、照明が暗かったり逆光での通訳も負担を大きくします。手話通訳者の健康を守り、質の良い通訳を保障するためにも、通訳者にとって通訳しやすい環境が大切です。 (3)健康管理に関する注意 頸肩腕障害の初期症状は腕や肩のだるさやこりなどの一般的な筋疲労症状で始まるため、検診を通じて心身の状態を把握し、予防や疲労回復をはかるための指導や通訳量の調整などを行う必要があります。手話通訳者がプロであってもボランティアであっても、手話通訳を依頼する大学や教員は手話通訳者の健康に関して配慮する責任があります。手話通訳者の利用頻度が高い大学は、手話通訳のコーディネートについて専門研修を受けた職員等を準備すべきです。 (4)手話通訳者の自己努力 頸肩腕障害は筋の疲労が原因で生じるので、手話使用前後にストレッチ体操を行うことは予防に効果があります。また、体操で筋肉をほぐし新鮮な血流を筋肉に流し込むことは、予防や疲労を回復させる効果があります。ゆったりとした気持ちで体操をすることは精神的な緊張も解きほぐす効果もあります。お風呂で体を暖めた後にストレッチ体操することは心身の疲労回復に大きな効果が期待できます。手話通訳者向けのストレッチ体操のDVD教材も出版されていますので、正しいストレッチ体操の行い方を身に付けて下さい。 6.おわりに 正しく理解していただきたいのは、手話通訳が健康に有害なのではなく、過度の手話通訳が健康を害するということです。適切な配慮のもとで、手話通訳者が健康に不安なく通訳できることを願っています。   参考文献 1)「手話通訳者の健康管理マニュアル」全国手話通訳問題研究会編 図書出版文理閣 2)「体をほぐしていきいき仕事」 全国手話通訳問題研究会発行 執筆者 垰田 和史(たおだ かずし) 滋賀医科大学社会医学講座予防医学分野助教授 2007年8月1日第2版 以下クレジット 発行 日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク(PEPNet-Japan) URL http://www.pepnet-j.org 郵便番号305-8520 住所 茨城県つくば市天久保4-3-15 筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター支援交流室 聴覚系WG 内 担当 白澤麻弓 E-mail pepj-info@pepnet-j.org 以下添書き PEPNet-Japanは筑波技術大学の運営による高等教育機関間ネットワークで、文部科学省特別教育研究経費を用いて運営しています。活動にあたっては、一部日本財団の助成によるPEN-Internationalからの支援を受けています。本シートは、アメリカ北東地域テクニカルアシスタントセンター(PEPNet-Northeast)の作成によるTipSheetを基に、PEPNet-Japanが独自に作成したものです。本シートの内容の無断複写・転載を禁じます。