千里ニュータウンに関する研究

総合政策学部 3年 梶田 恵

日本で初めての大規模ニュータウン、千里ニュータウンは1962年(昭和37年)11月のまちびらきから今年で40周年を迎えました。
そこで、この場では、千里ニュータウンの成り立ちと40年経った現在如何なる問題を抱えているのか、様々な文献を通して知り得た内容を紹介し、今後の千里ニュータウンはどうあるべきか、探ってみたいと思います。
ご覧いただいた皆さんから色々な意見をお聞かせいただければ幸いです。

@ 千里ニュータウンとは?−その概要と歴史

【全体図】

(財)生活環境問題研究所ホームページより引用

【事業概要】
事業主体 大阪府(企業局)
事業手法 一団地の住宅経営(佐竹台、高野台、津雲台、藤白台、青山台)

新住宅市街地開発事業(桃山台、竹見台、新千里北町、新千里東町、新千里西町、新千里南町)

都市構成 3地区センター、12近隣住区
開発面積 1,160ha →吹田市域:820ha(市域の22.7%)、豊中市域340ha(市域の9.3%)
計画人口 150,000人
計画戸数 37,330戸
事業期間 昭和35年度〜昭和44年度
事業費 592億円

@)建設計画〜決定へ
 千里ニュータウンは戦後の混乱から立ち上がり、高度成長期にさしかかるころに建設が計画されました。

 昭和30年代、大阪では出生ラッシュや地方から職を求めてやってくる人達で人口が急激に増加したことや、核家族化が早くも進み始めていたといった理由から、住宅供給の不足が深刻な問題となっていました。特に低所得者層に住宅困窮者が多く、そのためどうしても低家賃の公的住宅を提供しなければならないという事情がありました。
 大阪府としては、国の施策に沿いながら府営住宅を年間3千戸程度はコンスタントに建設するシステムを確立していたものの、建てても建てても追いつかない状態が続いていました。
 しかしながら、団地が各地で建設されていくにつれ、郊外では、古くから住む住人と新住民との交流の難しさが浮き彫りになったり、折角公営住宅が造られても商業施設や教育施設が思うように整備されないため生活や子供の教育に支障が出てくるようになり、加えて民間の無秩序な開発で地価が急騰したため。安い住宅の提供をモットーとする府営住宅は次第に都市郊外に押しやられ、都心に近くて安い土地選びは限界に達しつつありました。
 そのような状況下において、大阪府では健康で文化的な生活を享受できるまちづくりを一からすすめなくてはならないとの発想から、「住宅都市」造りを進めていくことになります。
 候補地としては生駒山麓、枚方地区、泉南地区、羽曳野地区、泉北地区、千里丘陵が上がりましたが、その中で千里が選ばれたのは、
  ・大阪市の中心部からおよそ10`と距離が頃合であった
  ・国鉄(現JR)や阪急の沿線に近い
  ・将来的に高速道路(現在の名神・中国道や中央環状道路)が計画されているため、交通の便が良くなる
 などの理由からでした。
 当時の大阪府は住宅政策と共に経済政策として大工業地帯の建設計画(現在の堺泉北臨海工業地帯)も始まっており、日本で前例のないニュータウン建設にはなかなかゴーサインが下りませんでしたが、その後の関係者の努力が実り、昭和32年度9月の府会で初めて予算(調査費)を獲得して状況調査が始まり、昭和33年(1958年)5月、正式に日本初のニュータウンである千里ニュータウンの建設が決定したのでした。

A)用地取得
 千里ニュータウンの開発計画は昭和34年(1959年)4月に発表されましたが、実際の用地取得交渉は前年から入っていました。
 開発予定区域はほとんどが樹林に覆われた数群の丘陵地であり、そのほとんどが民間の田畑・山林・池でした。
交渉するにも約1,300ha(約400万坪!)もの広大さであり、その所有者は3,000人と超えるとあって、先行き不透明な中での交渉でした。
 「深刻な住宅難の解消」をいかに所有者に理解してもらえるか。また入居者に安い住居費で生活してもらうためには安い用地の取得が必要。ということで、府はこのかつてない大事業を着手するに当たり、次のような方針を立てました。
 (1)買収交渉は個人ではなく集落単位とする
 (2)地目は現況とする
 (3)買収は公簿面積によるものとする
 (4)住宅や付随の工作物、立ち木は移転保証とする
 (5)完全離農者の就職などについてはできるだけ対策を講じる
 (6)買収基準価格は変更しない
 この方針をもとに買収交渉を進めていくことになります。
 昭和39年9月から本格的に地主との交渉が佐井寺地区・山田中地区(現在の南千里周辺地区)から始まりました。特に佐井寺地区は大阪市や吹田市に勤務する兼業農家が多く協力的だったこともあり、比較的この段階はスムーズに進められていました。しかし、買収が進むにつれ次第に困難になっていきます。
 この開発が大掛かりであるという噂が広がり、買収価格を吊り上げようとする地主の出現や、先祖代々の土地への愛着心からとても手放せないという地主が地域によって多かったためで、交渉では一触即発の場面もあったといいます。反対運動も次第に大きくなりその結果、やむなく土地収用法を適用して強制収用をせざるを得なくなるところも出てきました。地主も、府の担当者も苦しい日々が続いたそうです。
 そして計画予定区域全ての買収を終えたのは、昭和41年(1966年)のことでした。

B)マスタープランの決定〜いよいよ建設へ
 千里ニュータウンのマスタープランは昭和35年(1960年)10月に決定しました。
 マスタープラン設定にあたり、昭和32年(1957年)から日本建築学会と京都大学による調査研究が始まりました。海外先進国(イギリス・アメリカ・カナダなど)の事例や北摂の土地利用状況など調査していき、翌年には基本構想ができあがりました。その基本構想をもとに学術機関や行政などで検討を進めてマスタープランができました。
 基本的コンセプト:「大阪近辺に勤務する中低所得層を主要な対策とし、一部高額所得層を加えた安定した住宅地域で、独自の文化をもつまち」
 マスタープランの公表と時を同じくして大阪府に企業局が発足、いよいよこの大プロジェクトが本格的に動き始めることになりました。

C)建設からまちびらき(入居開始)まで
 建設は昭和36年(1961年)から始まりました。ちょうど米ソの宇宙開発が本格化し、日本ではカラーテレビの本放送が開始されました。
 まず最初に手がけたのが千里南公園(1月着手)、続いて千里1号線、2号線(3月着手)でした。
 しかしながら用地取得も完全に終了しておらず、地元住民の反発が強まっている中での工事着手だったため、起工式では会場周辺は農地買収反対同盟の人たちの決起集会で騒然としていたそうです。
 建設は佐竹台からスタートしました(予定では津雲台からだったようですが買収がうまく進まないとのことで急遽変更になったそうです)。
 当初は現在の住区名(津雲台、佐竹台などといった町名)がまだついていなかったため、ABC・・・という名称で呼ばれていました。

A住区 津雲台   E住区 竹見台   I住区 新千里北町
高野台   青山台   新千里東町
佐竹台   藤白台   新千里西町
桃山台   古江台   新千里南町

 開発の順序は、おおむねC→B→A→H→G→F→I→J→K→D→E→Lの順となりました。

 そして昭和37年(1962年)、いよいよ入居が開始され、千里ニュータウンのまちびらきとなります。

 昭和37年(1962年)11月2日、佐竹台で待望の「千里ニュータウンまちびらき式」が行われましたが、千里ニュータウンはまだまだ都市として整備されるべき問題を抱えていました。その問題とは・・・

 ○ 鉄道建設
  阪急電鉄は当時ニュータウン手前の千里山までしか開通されておらず、南千里までの延長工事には入っていた(1962年8月着手)ものの、その先はまだ白紙に近い状態でした。
 ○ 汚水・ごみ処理施設
  吹田市側のし尿処理場の建設が難航。応急処置として千里ニュータウン南部に5千人分の処理場をつくりました。
  最終的に吹田市側は摂津市に建設しました。また豊中市側は後に原田処理場を利用することになりました。
 ○ 予想外に入居希望者が少なかった
  昭和37年度の府営住宅入居募集は14倍でした。当時最も人気の高かった高槻市の津之江団地が159倍であったことを考えると、かなりの低倍率。この倍率はその他4団地の中でも最低の倍率だったそうです。
   また、当選しても棄権する人も多く、第1回入居決定1,010戸のうち、97戸(約1割!)が棄権。やむなく補欠当選の40世帯を繰り上げたもののそれでも空き家があり、10回以上の落選者を対象に再募集をかけたりしました。
  鉄道や生活周辺施設の未整備やなどを考えると確かに生活するには不便だったでしょうから、今考えると人気がなかったというのもうなづけます。

しかしながら時を同じくして日本万国博覧会が地元で開催されるということもあり、鉄道や道路など周辺施設が急ピッチで建設され、千里ニュータウン近辺は急速に発展していきました。

【参考文献】 (財)大阪府千里センターホームページ「あのときあのころ 千里ニュータウン史」

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