現在、私たちはメディアを通して、世界各地で、環境破壊の悲惨な現状に感化された人々が団体で「環境保全運動」を行っている姿を見かけます。彼らのほとんどは、環境問題が起こったのは自己利益を追求しすぎた企業が責任を取るべきだと指摘し、それらに対して何も対処しなかった政府も同罪であると考えています。魚の泳がない川や湖、木が切り倒され岩だけになった山々の写真を見ればそう考えざるをえないでしょう。近年では、不法投棄があちらこちらで見受けられ、有害物質(ダイオキシンなど)が人々の健康を害すると懸念されています。
彼らは、行動すること(Action)によって、度を越した環境破壊を食い止めようとしているわけです。
私は、彼らの言っていることを、正論だと考えています。現在では、「サイバーアクション」などを立ち上げ、精力的に活動している姿は、評価に値するでしょう。ただ、資源を生態系の再生能力以上を浪費し、大量生産を行って、不法投棄をした企業などに対して運動を行うということは果たして十分なのでしょうか。
ここで考えなければいけないことは、抗議している人々も日常では凶悪な「破壊者」となっているということです。大衆消費社会の中に生きている私たちは、積極的に商品を購入し、消費しています。そして、廃棄物が止まることを知らずに捨てられている現状が世界中にあるわけです。
この事実は、あまりに日常化してしまいました。それゆえ源泉となる企業や政府を「悪の親玉」に仕立て上げ、それらを真っ向から非難することが、彼らの誇る「正義感」、枉げられた「正義感」となってしまったのです。
「一体誰が、この「大衆消費社会」から抜けて生きることができるでしょうか。」
「ただ、環境問題を解決すれば、私たちは満足のできる生活を営むことができるのでしょうか。」
現在私たちは、さまざまな「環境問題」に囲まれています。森では森林伐採、海では水質汚染、都市圏では大気汚染、地方では不法投棄など、日本で環境問題がない地域はまずないでしょう。しかし、だからただ単に企業などの破壊行為を止めさせることが正しい解決策ではありません。企業が生産を止めれば、経済は混沌としてしまうでしょう。そのことを最初に理解しなければならないであろう「メディア」が、大衆を扇動し、環境問題はビジネス上で破壊をしている人間を非難し、排除すればよいような考え方を提供しているようでは、そもそも環境問題は究極的な解決はできないのです。
そこで、私たちは行動を起こす前に、環境のことだけでなく、しかし自分自身の生活や我々が住んでいる社会の形態を考えなければなりません。ただ漫然と金額的なことだけを考えるのではなく、全体的でかつ多様な視点からそれぞれ問題を観察し、解決策を考察することが大事でしょう。多角的視野で解決策を模索することは、1つの限られた視点でするより、はるかにリスクが少なくてすみます。
もし政府や企業に対して、環境破壊を止めるよう多人数で運動を起こすとすれば、環境と経済の2つの違う視点から「代替案」を考え出し、突きつける必要があるわけです。それができて、初めて「行動」するといえるのです。
関西学院大学の総合政策学部は、現在の蔓延する世俗的な価値を根底まで問い、そこから知を探求し、政策(代替案)を考える、まさに人間と自然、人間と人間が共生でき、持続発展を達成できる21世紀の学部なのです。
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