「環境倫理研究会」 第一回レジュメ

担当:吉良

 「動物開放論」は、知性や能力を人間平等の基盤にすることを否定する。なぜなら、人間の知性や能力などは生まれつき個人差が存在するからである。ある行為の影響を受けるすべての関係者の利益を平等に考慮して、それを倫理的に考察し、その行いの善悪を判断しようというわけである。そして、苦痛を感じるという利害を基準にして倫理的考察を行うことにより、結果的に、苦痛を感じる可能性がある動物も同等に扱う必要性が生じ、それゆえ、人間が他の動物から特権的に扱えないことを証明する。

 ベンサムからの引用

「功利性の原理とは、その利益が問題になっている人間の幸福を増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、また同じ事を別の言葉で言い換えただけであるが、その幸福を促進するように見えるか、それともその幸福に対立するように見えるかによって、すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する」

世界の名著「ベンサム・ミル」中央公論社 P82(

<<動物の権利擁護論 トム・レーガン>>

1)功利主義から権利論へ

●「功利主義によれば、ある行為もしくは規則の結果、影響が及ぶ全当事者の利害(選考または快楽)が考慮に入れられ、同等な利害が平等に計算されたとすれば、正義がなされたことになる。」(P30,L3)。

 ところが、このような状態に持ち込むには前もって全ての利害がはっきりしていることが必要。
●「権利論は、功利主義が失敗するところで成功する」(P31,L7)

●「権利論は家畜の絶滅を要求しているのではなく、正義が要求するような家畜の取り扱いを求めているだけである」(P29,L1)
「正義」とはいったい何であろうか?トム・レーガンにとっては「正義」であることも、読者である私たちにとっては「正義」である保障はどこにもない。

2)どこまでが権利の主体となりうるか?

●「家畜産業擁護論は、生活主体として基準を満たす動物と満たさない動物との間の線引きがいかに難しいかを考慮に入れていない上に、あらゆる家畜を再生可能な資源として扱う我々の文化的習慣という、より大きな文脈の中で家畜産業を正当化するようなものでもない。」(P29)

→動物とそうでない生物の線引きが難しいと述べているにもかかわらず、植物と動物の間の区別が難しいことを「動物の権利」は無視しているといえる。

3)やはり、功利主義を脱却していないのでは???

●「これらの個体への小さな害を集計してみても、先ほどの一個体に及ぶ害に一見したところで匹敵するような害は、どんな個体にも及ばない。その他の利害関係者の損害を集計したところで(例えば人間の美的利害や科学的利害)、この選択は変わらない。こうした損害を集計しても、われわれが先ほど一個体の権利を侵害する選択をした場合、その一個体に及ぶ害に一見したところ匹敵するような害は、どんな個体にも及ばない。」(P32,L9)

→「一見する」ものは何か。「一見する」ものは、天秤の様に合理的な判断をできるのか。そこには個人というフィルターが必ず存在する。このような、主観を絶対視した思想はたの部分にも見られる。

●「当事者全員が敬意を持って扱われ、考慮すべき特別な問題がないと想定されれば、どんな罪のない個人も、たとえそれが他の罪のない個人に害を及ぼすことになるとしても、不都合に陥るのをさけるために行使する権利を持っている」(P22,L6)

→このように、「敬意を払う」主体の主観の問題は問われない。

<<なぜ動物の権利が必要か? マイケル・W・フォックス>>

1)権利を主張できるもの対しては・・・

●「あなたは楽しむ権利を持っているが、それは他人を犠牲にしたものであってはいけない」(P99,L5)

→「生命と身体を含めて自分の所有に帰するものは、他者への危害を引き起こさない限りで、たとえその決定の内容が理性的に見て愚行とみなされようとも、対応能力をもつ成人の自己決定にゆだねられるべきである」加藤尚武による生命倫理学の根本定義

 現在の日本の法律は(いや、どこの国の法律も)この考え方に立脚しているといえよう。歴史的に考えると、この様な考え方はいつ頃から形成されてきたのだろうか(まさか狩猟・採集の時代にこのことを言った人はいないであろう)。また、なぜそのような思想の転換が起こったのであろうか。そして、この過去の歴史を振り返ることにより(また現代を分析することにより)、この思想の問題点が浮き彫りになるのではないか。

2)権利を主張できないものに対しては・・・

●なぜなら、我々人間は食べ物として、ペットとして、あるいは病気の治療法を発見するのに役立てるためなど、さまざまな方法で動物を利用しているので、我々は彼らに対して一定の責任と義務を負っているからである。地球上で最も強い動物として、我々人間は彼らの権利を守り、強化する道義的義務を持つ(P96,L3)

→まずもって「彼らの権利」とは何なのだろうか。それを明確にできていないのに「守る」ことができるのであろうか。この論点は次に続く。

3)根本的な問題点を探る

●我々の仲間の動物達が与えられるべき権利はたくさんある。(P98.L14)

→「何が」権利を与えるのであろうか?また、彼の独特の文体である「〜の権利はあるが、〜の権利はない」という文体の盲点はどこにあるのか?

<<吉良の持っている視点>>

★功利主義の脱却について

 1)はじめから全ての利害を判断することはできない。
  ←これに関しては、功利主義を脱却したかも?

 2)そもそも、人間が「何を利益と思うのか」という観念に付いては操作可能?
  ←吉良が提示する問題点。これについては功利主義を脱却していない。

★システム論

 1)インターネット(一般のシステム論)

 2)社会システム論(ルーマンのシステム論)


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