社会科学小百科事典

 この「社会科学小百科事典」は、鎌田ゼミで勉強した人々について簡潔にまとめた物です。これらの記述は原典を読書した上でなされていますが、あくまで百科事典的記述です。なにぶん短い文章なので十分に説明できていないところも多々あります。詳しいくは鎌田ゼミ講義録を参照して下さい。なお、このページは授業が進むに従って随時更新されます。

1997年度鎌田ゼミ春学期講義内容(心理学・社会学・人類学中心)

1997年度鎌田ゼミ秋学期講義内容(自然科学・経済政治倫理中心)


★心理学 フロイト\ユング\フロム\ピアジェ
★社会学 デュルケム\ジンメル\ウェーバー\マンハイム\オルテガ
★人類学 マリノフスキー\レヴィ=ストロース
★比較思想 墨子\荘子\原始仏典
★自然科学 ダーウィン\トマス・クーン
★経済・政治理論 アダムスミス\J.S.ミル\ベンサム\マルクス・エンゲルス\レーニン\ケインズ\ハロッド\孫文\毛沢東
★思想・芸術論 デカルト\ニーチェ\近代の芸術論
★現代を超える 複雑系\ディープエコロジー
★現代の科学 ドルトン\ラプラス\ヘルツホルム\リーマン\マックスウェル\マッハ\ボルツマン\パブロフ\メンデル
ジグムント・フロイト(Sigmund Freud)1856〜1939

 高校まで、いやひょっとしたら大学というところですらも、フロイトは単なる一人の心理学者という位置に納まってしまっているかもしれない。彼をそう見なしてしまえば、実に気が楽なものだ。フロイトは、1856年にモラビアで生まれ、心の秘密を解く心理学の基礎をつくり、そして、1939年にロンドンで死んだ。というように、彼を教科書の二行に陳列することはできる。僕らが今までやってきたことは、墓場の墓碑名をひたすら頭に刻み込むことだったからだ。しかしよく思い返してみれば、その人を知る努力を払わない、名前還元主義は、何と失礼で、悪趣味な勉強だろうか。言うまでもなく、フロイト一人の理論を凝り固まったフロイト主義で押し通せば、それは、固定化した唯一の答を掘り当てようとする墓荒らしにすぎない。このことをフロイトは彼の言葉を通して、僕らに教えてくれる。

 このフロイト紹介文も悪趣味な墓管理人になるのではないか、という思いで、重い!筆を振るった。従って、最初はずいぶんと、挑発的な振る舞いをしてしまったが、どうぞ、それに反応された方は、どうぞ来年の鎌田ゼミにおいでくださって、一緒にお話しすることを願っている。

 それぞれの時代状況の中でもがき、その軌跡を残していった一人一人の人間を文献を媒介にして、今の時代状況と照らし合わせて読み、甦らせ、現在を明るみに出す作業が諸文献購読ということになる。この文献購読作業の幕開けはフロイトであった。 近代が目指してきたものの一つに、この僕らが生きている世界を、客観的な判断材料を元に、誰にでも当てはまる一つの固定した答により解きあかそう、という流れがあった。フロイトは、この様な態度、つまり、現象をただ記述したり、分類することを目指す心理学に対してこう言う。

 「異なった二つの意図が衝突し、<干渉>しあう」のだ、と。さらに彼の言葉を借りて言えば、

 「現象を心の中のいろいろな勢力の角逐のしるしとしてとらえること、すなわちときには協力し、ときには対抗しながら、ある目的を目指して働いているもろもろの意向の表現としてみることを望んでいます。私どもは心的現象の<ダイナミックな把握>を求めているのです。」『精神分析学入門』p.126 世界の名著シリーズ60

 僕らは、生きていく中で、一人の人間に対してさえも、ましてや、世を騒がせている環境問題に対してでさえも、これが悪い、とかあれが悪いとかいった、せいぜいが、風邪薬程度の対症療法しか頭に思いつかない。

 フロイトを相関性という視点で捉え直すことができれば、僕らのような原因要素還元主義が持つ単純系頭脳には、大変な良薬でもあり、劇薬でもある、と僕は思う。


エーリック・フロム(Erich Fromm)1900〜1980

 フロムの思想は第二次世界大戦の中で育ったといっても良いであろう。戦前に書かれた彼の主著『自由からの逃走』では、人間は「…からの自由」に耐えることができず、「…への自由」にも移行することもできないから、ナチズムに走ったという分析がなされている。これはつまり、「人間は自由を希求するが、いざ外部の束縛から開放されたとき、実際自分は何をしていいのか分からない、そして結局脅迫的な画一化に走ってしまう」ということである。この分析は単に第二次世界大戦という枠内で捉えるだけではなく、現在の社会状況と重ね合わせることも可能であろう。

 では、戦後の彼の思想はどのように変わったのであろう。戦後の主著である『正気の社会』では、「集団にあわない人間を正気でないと扱うのが一般であるが、文化それ自体が「正気でない」と扱うことはできないであろうか?」という提題がなされている。つまり、これは社会は社会に適応できない人間を異常として、彼を排除する傾向があるが、逆にその人間が正常であり、社会が異常ということがあるのではないかというアンチテーゼである。これを見ても分かるように、フロムの思想は戦前と戦後で大きく変わることはない。なぜなら、フロムは世界中の人々が「ナチスは異常であり、私たちが正常である」などと決めつけることによって、新たなファシズムの帯刀を恐れたからではないだろうか?

 余暇を楽しむといったところで、人間が創造した遊園地で消費を続ける人間達。阪神大震災で多くの人間の心が痛んだにも関わらず、「15億円の損害」とすぐに金額に換算して語るニュースキャスター。「これは自分の個性なのだ」と学校に対して不平を語るが、月並みのおしゃれ(茶髪、ルーズソックスなど)をする若者達。この社会は本当に正気なのであろうか?もうフロムはこの世にいないが、彼が私たちに対して問いかけた問題はまだ解決はしていない。

 フロムの主著としては『自由からの逃走』『正気の社会』『愛するということ』などがあげられる。鎌田ゼミでは『正気の社会』を取り上げた。


ジャン・ピアジェ(Jean Piaget)1896〜1980

 ピアジェは発達心理学の分野ですぐれた業績をあげ、それまで哲学的に語られていた認識の発達を科学的な説明を試み、現代の心理学に新たな方向性を打ち出した学者である。彼は発生的認識論の研究にあたり、発生的認識論研究センターで心理学のみならずさまざまな分野の研究者の参加による共同研究を行った。このような共同研究を背景に生み出された特定の分野に規定されない研究は、新たな学問研究の方向性として注目に値する。

 人間の認識という分野に科学的な方法論を持ち込むにあたりピアジェは心理学・言語学・物理学・数学などの研究を積極的に取り入れた。なかでもレヴィ=ストロースにはじまる「構造主義」は認識の発達研究にも大きな影響を与えている。とはいってもピアジェは単に認識論を「構造主義」という側面から分析したのではない。私たちは「構造」という言葉の持つ多義性を十分考慮しなくてはならない。だれが「構造」と使っているのか、「構造」を用いてなにを言おうとしているのか、どのような文脈で「構造」が現れているのか、「構造」と日本語に訳されたものが見落としたものはなかっただろうか。

 ピアジェは「構造」を「全体性、変換性、自己制御性」という3つの性格で捉えている。その上で人間の認識の発達を、主客未分化の時期から高度に抽象化した思考を操ることができるまでを、認識の構造のネットワーク的拡大という視点で分析する。認識の構造(シューマ)の生まれてまもない、いわば限りなくゼロに近い状態からの形成、つまりその発生とその発達をピアジェは記述した。このように「構造」形成の出発点をも考慮にいれたピアジェの「構造主義」は、時間という視点を欠いた純粋に現状分析的な「社会構造」論などとはまったく異なる立場にあるといえる。

 また、子供と環境の関係性に着目し、教育心理学の分野にもピアジェの研究領域は広がっている。子供と環境、認識と環境、構造と環境、社会と環境、人間と環境、システムと環境。例えば環境問題とピアジェはこのようなにつなげられる。人と自然の関係を考えるとき、ピアジェの議論はとても重要なのかもしれない。


エミール・デュルケム(Emile Durkheim) 1858〜1917

 デュルケムはコント・スペンサーと並び、社会学の祖の一人としてあげられる人物である。それまでの科学では社会調査をする場合には、社会的な要因というものを考慮に入れることはなかった。当時の社会調査法では、統計を取り、その平均を出すことによって社会を知ることができると考えていたのである。つまり、個人を大量に分析することによって、社会をい知ろうとしていたのである。

 ところが、デュルケムはこれに反論する。彼は、自殺論の中で「社会的環境というものは、もともと共通の観念、信仰、習慣、傾向などから成り立っている。だから、それらがこのように個人の中に浸透しうるためには、いわば個人から独立して存在してなければならない」と言い、平均を取るだけでは見えないものが存在するのではないかと考えたのである。デュルケムは個人を越える集合体を「社会」と定義づけ、それを分析することが社会学の方法であるとした。

 したがって、彼は「自殺論」の中で統計的データを存分に駆使するが、その一方で「こうして得られた全体は単なる個々の単位の総和、すなわち寄せ集められた自殺の和ではなく、それ自体が一種独特の新しい事実を構成していることが認められる」と言い、自殺の根本原因を探っていくのである。

 デュルケムの著作には「自殺論」「社会的分業論」「社会学的方法の基準」「宗教生活の原初形態」などがある。鎌田ゼミで扱った「世界の名著」中央公論社では、「自殺論」が取り扱われていた。


ゲオルク・ジンメル(Georg Simmel) 1858〜1918

 多彩な学者で知られるジンメルであるが、その中の社会学的な部分を切り取ると、社会現象の中から「社会の形式」だけを抽象して取り扱うとする「形式社会学」を主張したといえるであろう。社会学は「個人」の他にも「社会」という要素が存在するという点に着目しながら発展してきたのだが、個人と社会の相互作用と最初に打ち出したのは他ならぬジンメルであろう。彼によると、人間はすべての表現において他の人間に影響を受け、またすべての人間において他人に影響を及ぼすのである。

 彼の打ち出した理論は「分化」の理論であり、原初的な人間社会では人間は集団に所属することによって生き、個性というものを持たなかったが、社会が分化していくにしたがって、人間はさまざまな社会圏と交わり、その相関関係において人間は個性を生み出すとしている。そして、分化を統合して個性を生み出した個人は、また別の社会圏と関わっていくため、統合された個人は分化された一つの社会圏となる。ジンメルは「人格は、もともとはたんに無数の社会的な糸の交錯する点にすぎない。つまりそれは、たださまざまな圏と適応期から伝えられたものの結果にすぎないのである。だが、それは、種属的諸要素がその人格の中で一緒になる場合の量と組み合わせの特殊性によって、個性となるのである」とまで言い放っている。ここでもそれまでの科学とは違い、新たに「社会」という概念を見つめるジンメルの眼差しを感じるのである。

 ジンメルの著作には「社会的分化論」「貨幣の哲学」「社会学」「生の哲学」などがある。「世界の名著」中央公論社に収録されているジンメルの著作は「社会的分化論」である。


マックス・ウェーバー(Max Weber)1864〜1920

 マックス・ウェーバーは彼の代表的な論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、資本主義という新たな経済システムを成立させた要因は一体何であったのかという疑問を抱いた。彼は資本主義の勃興を促すことに貢献した経済主体のなかの中心的存在であったプロテスタントの予定説に基づく神による救済の強い希求、それを実現する為の方法である禁欲的な性向にその要因を見出した。

 ウェーバーの論理は一見大きな矛盾をはらんでいるかのようにもみえる。なぜなら、禁欲的な人間の集団が、利益のさらなる追求を目指す資本主義を勃興させ主たる要因であるとするからである。しかし、ウェーバーによればプロテスタントの人々が資本主義の勃興を促進したのは、ただ単に利益を得ることにより富裕な生活を送りたいという欲求からではない。神からの救済をうる為には、自らの与えられた生きる機会を最大限に活用することこそが禁欲的な生活を送ることにあたるのではないかと彼らは考えた。そして、そのような思考が彼らの職業観に多大な影響を及ぼし資本主義を生み出す主要因となったのではないかというのがウェーバーの主張である。

ウェーバーはこの論理を展開するにあたり17、8世紀のプロテスタントの著作家たちの文献を基礎データとして彼なりのプロテスタントの禁欲的心理を再構成しようとした。しかし、この方法は実証主義の立場から強い批判けている。しかし、彼の扱った複雑な人間心理を分析する際に、果たして一般的にいわれている実証主義的方法がそれを捉えきれるかどうかは疑問である。その点で彼の方法には意義があるのではないだろうか。


カール・マンハイム(1893-1947)/ ハンガリー/社会学者

 ドイツ留学から帰国後、革命的文化主義者としてハンガリーで積極的に活動する。1919年3月に革命評議会政権の樹立に伴い、ブダペスト大学の哲学教授に迎えられたが、同年8月の反革命に出会い、まもなくドイツに亡命した。ドイツではイデオロギーの科学的把握を目指す知識社会学の確立に没頭した。そんな中で書かれた「イデオロギーとユートピア」は各方面で脚光を浴びる。1932年ヒトラーが政権を握り、再度の亡命を余儀なくされ、イギリスに亡命した。

 マンハイムは個々の階級やイデオロギーの相関性に目を向けるべきとする相関主義、即物的なものに認識が偏ることに対して、歴史を捉えていくことが必要だとする歴史主義に基づいて知識社会学を提唱する。確かにどんな人間の存在もその立場や時間に拘束されているが、全体的視野から相関や歴史を見ようとすることで真理に近づくとマンハイムは言う。そしてその相関や歴史を捉えることのできるのは、常に現実に縛られた秩序から理想の方向へ抜け出ようとするユートピア的意識を持つ「自由浮動的インテリゲンチャ」であるとする。マンハイムのこの問題意識は当時存在拘束性にすら目を向けず、ユートピア的なものはもちろん、イデオロギー的なものからも離れた無緊張状態にあったヨーロッパの状況に対して出されたものだと考えられる。

 世界の名著には「イデオロギーとユートピア」が収録されている。


オルテガ・イ・ガセット(1883-1955)/スペイン / 哲学者

 スペインの国立大学で学んだ後、ドイツに留学し、新カント学派のもとで研究を行った。帰国後、マドリッド大学の教授となり、著述活動を精力的に行う。左右の政治勢力への分極化か極点に高まった当時のスペインに強い危機意識を持ち、その問題意識に沿って「無脊椎のスペイン」という論文も発表している。著作の中でも「大衆の反逆」はヨーロッパの思想界や社会に彼の名を知らしめることになった。スペイン戦争の暗雲がたれ始めた1936年にフランスに亡命したのを皮切りに、45年まで亡命生活を送る。

 オルテガは凡庸で、困難や義務を避け、歴史を見ようとしない、暴力的に直接行動に訴えようとする知的「大衆」に対する強い危機意識を持っていた。そんな「大衆」が権力の中枢に入ってしまう「反逆」が当時起こっているとオルテガは指摘したのである。それが当時の「ヨーロッパの没落」という状況である。「大衆」支配の象徴的なものとしてファシズムや国家主義を挙げている。オルテガはそんな危機的状況を打開するのは知識人が担い手となって国家を制御する貴族主義であり、ヨーロッパにおいては袋小路に入り込んでいる国家主義に対して一大国家としてのヨーロッパを建設することで生の充実を取り戻すことを主張している。

 世界の名著には「大衆の反逆」が収録されている。


プロニスロー・マリノフスキー(Bronislaw Kasper Malinowski) 1884〜1942

 「科学の発達は西洋中心で進んできた」ということは、誰しもが疑わない事実であろう。そして、西洋の進歩と文明に対置して、未開と野蛮が位置づけられた結果、西洋社会には未開社会に対しての差別が存在した。しかし、その差別されてきた未開を研究対象に取り上げたのが、文化人類学の祖、マリノフスキーである。現地でのフィールドワークは当時の学者にとって考えられないことであり、マリノフスキーはそのような学者を批判した。彼は自らニューギニア東方のトロブリアンド諸島で二回に渡るフィールドワークを行い、未開社会の内部にも文化を発見したのである。

 彼が用いた手法としては「機能主義」が有名である。機能主義とは「文化や社会の現象を、その起源や発展の過程から理解するのではなく、生きて互いに働き会っている機能の構造として描き出そうとする立場」である。機能主義の立場をとる彼の目から見ると、一見無意味に見える未開社会の呪術も風習も、十分に意味を持つものに変化する。「我々の最終目的は、我々自身の世界の見方を豊かにし、深化させ、我々自身の性質を理解して、それを知的に、芸術的に洗練させることにある」というマリノフスキー自身の言葉を見ても分かるように、彼は未開社会を見つめ、いわゆる文明社会を見直そうとした。クラ貿易を発見し、それまでの経済学を批判したのは、彼が事実そのように考えていた現れであろう。

 マリノフスキーは「西太平洋の遠洋航海者」の中で文明社会の批判を繰り広げるが、彼が行ったのは「批判」がほとんどであり、新たな世界を構築することはできなかった。しかし、それでもなお彼が残した視点というものは、現代に大きな影響を与えている。彼が残した視点を引き継ぎ、常に文明社会を観察していくのが我々に課せられた責務ではないだろうか。

 手軽に読めるマリノフスキーの本は「西太平洋の遠洋航海者」ぐらいである。中央公論社の世界の名著では、「西太平洋の遠洋航海者」の全文が掲載されている。


クロード・レヴィ=ストロース(Claude Levi-Strauss)1908〜

 彼の主著である「悲しき熱帯」を読めば、1900年代中期に西洋の文化人類学者がフィールドワークを行うことがいかに難しかったかが分かるであろう。そこまでして文化人類学者が未開社会に向かう理由は、それだけ西洋文明社会が閉塞状態におかれていたからだといえるであろう。レヴィ=ストロースは、幅広いフィールドワークを行い、「構造主義」という立場を確立した。

 これまでの科学は人間主体主義で進んできた。しかし、ここに「構造主義」の立場を導入すると、人間は主体的ではあるが、その主体は「構造」によって決定づけられるということになる。したがって社会は単なる個人の和ではなく、そこに「構造」というものの存在を見ることができるのである。レヴィ=ストロースは、未開社会における「構造」というものを発見し、無意味に思える未開社会の風習に対して合理的な説明を加えた。「近親婚の禁止」はその一つといえるであろう。

 ただ彼は、普遍の雛形として「構造」を捕らえたのではない。「完全に構造を見抜いた」といっても自分はまた別の構造に組み込まれており、未開社会の構造を明確にしたところで自分は西洋文明の構造に含まれているのである。構造全体を把握するには構造を外から概観する必要がある。ところが、外から概観している人間もまた、ある別の構造に組み込まれているのである。この様なところにもレヴィ=ストロースは自覚的であったといえるであろう。

 レヴィ=ストロースの著作としては、「悲しき熱帯」「野生の思考」「親族の基本構造」「神話研究」などがあげられる。中央公論社の「世界の名著」シリーズでは「悲しき熱帯」が納められている。


墨子 前478頃〜

 中国思想といえば儒家が有名である。儒家の思想の基である「仁愛」は、家族愛を基礎とし、そこから身近なものから疎遠なものへと敷衍していく。ところが、これは結局のところ差別的な愛ではないか、墨子はそう説くのである。

 そこで墨子が提唱したのは「兼愛」の思想である。「兼愛」は無差別平等の愛を目指し、これは「他人のために何かをすることは必ず自分の為になることである」という思想に基づいている。このように墨子の思想は功利的で実利的であるため、墨子に言わせると儒家のような体裁だけのしきたり、音楽などはまったく意味がなく、また「罪の基準は他人に損害をどれだけ与えたかにある」とまで言うのである。

 また、「諸国が乱れるのは正義が一つに統一されていないからだ」と墨子は言った。これは現代社会にも十分適応できる考え方であり、正義の規範が個々人、国々で違うと混乱を生むことになるであろう。現代社会は「法」というものを作り正義を統一することによって混乱を避けてきた。墨子が提唱した「統一的な正義」は、常に自分の上司である人の正義に従うことである。村民は村長に正義に従い、村長は国王の正義に従い、国王は天に従わなければならない。墨子が目指したものは、ただ単に国の統治ではない。彼は兼愛の思想と、すべての事を上位者に報告することによる正義の統一によって、人々のネットワークを救おうとしたのではないだろうか。

 墨子は「宿命論」を否定しながら、なおかつ「天道」に従うことが必要だと説く。これを単なる自己矛盾として捉えないのであるなら、相互浸透性のあるネットワーク(つまり、人間と天との関係)への果敢な働きかけと捉えることができるであろう。墨子教団が生き抜いた時代は、小国が覇を競い合う春秋戦国の世の中である。その中で生き抜かなければならない人間にとっては、兼愛と上位者への服従は対立する要素ではなかったのではなかろうか。



荘子

 荘子は一般に「諸子百家」「老子」「道家」「無為自然」などの言葉の関係性の中で表現されるが、実際に荘子がどのような人物であったのか、伝記的な事柄に関しては正確なことはわかっていない。今日のような荘子像は、例えば司馬遷の『史記』などにみられる記述と、荘子の思想をまとめた『荘子』から描かれたといえる。『荘子』は時代とともに何度も整理され、現在のテキストは晋の郭象(210〜310)が定めた三十三篇本である。この三十三篇は、内篇・外篇・雑篇から構成され、このうち内篇の七篇が荘子自身の手によるものとされている。荘子の思想は宗教的性格を帯びており、自然にたいして人為的にふるまわず無為のままに自然(運命)を受け止め、また人間の限定的な主観(人為)が作り出す「是と非」「生と死」「美と醜」などの対立を越え、それらを和合させる人間を越えた自然の立場を説いた。このように荘子の思想は運命の主体が人間にあるという考え方を否定している。同時に運命の主体は「天」であるという考え方も否定する。荘子は運命に対しての主体性の主張を退けることで、すなわち天と人のどちらにも重きを置かないことで、人間の共同性の崩壊という問題に道を拓こうとしたのではないだろうか。

 荘子が生きた戦国時代は、人間の共同性が崩壊の危機にさらされた時代であった。今、私たちが同じように共同性の揺らぎを感じるような状況にあるとしたら、荘子から学ぶことも多いのではないだろうか。


チャーリー・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin)1809〜1882

 代表的な進化論者として現在まで語り継がれる人物。ケンブリッジ大学神学部で学士を取得した1831年生物学、地質学の調査を行うためにビーグル号に乗り世界周航に向かう。その周航で立ち寄ったガラパゴス諸島の生物観察、さきに進化論を唱えていたラマルク、マルサスの人口論などの影響を受け、1958年『種の起源』において生物種はそれぞれ別々に創造されたわけではなく、自然淘汰による種の変化によって進化していると主張した。彼は厖大な観察の中から形態や生態の類似する生物が多く存在することを指摘し、種の変化自体の仕組みまでは説明できなかったものの、そこに淘汰の働きがあると主張した。さらに1871年『人類の起源』で人間も進化の産物であり、神の創造物ではないことをはっきり主張した。ここでダーウィンは人間も道徳という他の生物にはないものを持ち、社会的動物として生きているとはいえ、その機能から見れば他の生物も社会性と言えるものを持っており、そこに大きな違いはないと言う。ダーウィンは人間と動物との類似性を指摘することで当時既に揺らぎつつあった「神による創造の世界」からの決別を告げた一人であったとも言えるだろう。また、ダーウィンの進化論はラマルクの進化論とは違い、広く社会科学にまで受け入れられる。その代表的なものが「社会ダーウィニズム」というもので、自然淘汰、適者生存の原理を人間社会に適用するという考え方である。しかし、ダーウィンが「ダーウィニズム」として広く受け入れられたのは、彼の指摘が純粋に認められたと言うよりは「個の時代」に移りつつあった当時の時代状況を反映した結果だったと言えるかもしれない。

 世界の名著には『人類の起源』が収録されている。


トマス・クーン(Thomas Samuel Kuhn)1922〜

 総合政策という名前が売り出されて、はや3年が経ちますが、本当に総合政策は単なるはやりの学問でどこかのファッション学部と同じように、10年くらいで廃れてしまうのかどうかを占うには、格好の材料であるトマス・クーンを紹介したいと思います。おっと、祭りの最中に不吉なことを漏らしてしまいました。しかし、祭りが、対話的カオス的相互作用的総合的な場に比されるならば、この様な文章も総合政策にあっては許されるのではないでしょうか。

 よく理論と実践という話しが話題に上ることがあります。そこで最近の関心事は、政策を立てるのに都合の良い、フィールドワーク(フィールドワークが何なのかという問いはさておき)、要するに、社会的?実践を重要視すると筆者は聞いております。何しろ、理論ばかりやっていると頭がこちこちになって、眼も暗くなるそうです。

 筆者は常々、疑問に思うのですが、実践を支える指針とか理論が崩れたら一体どうすればいいのかなあって。お母さん、お父さんは子供に「人からお金を借りるんじゃないよ」とか「借りたら必ず返すのよ」とか、おっしゃるのにも関わらず、マイホームを購入されるときには必ず借金をします。子供がこのことに気がついたら(なかなか気がつかないような仕組みになっているようですが)それこそ、子供の実践は戸惑いしかありません。

 僕らがもしトマス・クーンという人からものを学ぶ姿勢を受け取ったとするならば、それは、上述のような問題を考える切り口ではないかと思います。

 理論と理論がどのような流れの中にあるのかを考え、どれが正しいとかどれが間違いとかいうせいぜい高校のセンター試験程度の○×問題を超え!、まずは理論それぞれが持つ歴史的に相対的な位置を捉えることにあると思います。

 僕たちは、すぐ答を欲しがります。また、答がでてくることを知っています。もう少し言い換えれば、答を出すために何かの規準にあわせています。その過程の中で、見たくないものには眼を背け、臭いものには蓋をし、ひどいことになれば、都合の悪いものを改ざんしていきます。そうじゃないと、自分の世界が混乱してしまう、と人は欲求するからです。本当は、自然科学者の多くの人たちも、僕らと同じように、この世界を自分の手のひらの中におさめたいと思っていらっしゃるでしょう。ここまでトマス・クーンを読み解いたときには、おそらくそれは単なるパラダイムとか科学とかそういう無味乾燥な位置づけから、近代批判としての鋭いメッセージが聞こえてくるような気がします。

 この神秘なる自然を、クーンはこう呼びます。
「人間が知るための世界は、どんなものでなければならないか。」
クーンは、答える。
「なお未解決にとどまっている」
と。


ドルトン(John Dalton)1766〜1844

 ドルトンは、ニュートンたちと同様に気体が熱的な雰囲気に取り囲まれた小さな粒子の配列として構成されていると仮定する説明に到達し、この考えを拡張し、混合気体の圧力がそれと同音同体積の成分気体の圧力の和に等しいという法則(ドルトンの分圧力)を1801年に発見。彼の原子はもはやある種の漠然とした物理的、一般的性質をもった最小粒子ではなく、それぞれの元素は、それに特有な究極粒子、すなわち原子からなり、同種の原子は、同一の質量をもつという基本的仮説から出発した。そして個々の原子の質量を直接測ることはできないが、異なる種類の原子の質量の比は、化学反応を支配するいくつかの経験法則、たとえば定比例の定律や倍数比例の定律から推測することができること、そして逆に、それらの経験法則が彼の原子仮説の当然の帰結であることを示した。以前のもっと形而上学的色彩の強い原子論と違って、このような経験的根拠を持つ原子論の出現はその後の化学や、物理学の発展に計り知れないほどの大きな影響を及ぼすことになった。


ラプラス(Pierre Simon,marquis de Laplace)1749〜1827

 フランスの数学者・天文学者。『惑星系論』『天体力学』『確率論』など。ラプラスの業績はラグランジェなどと共同でニュートン力学の原理を惑星のレベルまで拡大したことから始まる。それはニュートンの力学をさらに完成した体系へと導いた。すくなくともラプラスはそのように考え、例えば宇宙のはじまりにおける初期条件がすべてわかれば、そこから先のことはニュートンの理論体系を用いて予測できると考えた。しかし、すべての初期条件を把握することなど神のような存在(英知)しか可能ではない(ラプラスの魔)。いくらニュートンの理論体系が完成されていても、初期条件が整っていなければ、結局完璧な予測など神や宇宙の創造主にしかできないのである。しかしラプラスは神を必要としなかった。初期条件をすべて把握することはできないという問題をラプラスは「確率」によって補えると考えた。「第一法則(確率計算の一般法則)これらの諸法則の中の第一は確率の定義そのもので、確率はさきにみたように、好都合な場合の総数と可能なすべての場合の総数との比である」。 このような確率の概念などラプラスの考え方は後の科学の演繹的方法論などに大きな影響を与えたといえる。統計による現状の分析とそこから生み出される対策。社会調査。実験系の心理学。景気動向予報。極度に初期条件を単純にして日本の将来を悩んでみたり。ときには初期条件を複雑と置いてみたり。


ヘルムホルツ()1821〜1897

 ドイツの生理学者・物理学者。『生理光学』『音の感学』など。ヘルムホルツ的段階に達するまで、「力」という言葉は異なるさまざまな意味を持っていた。例えば、ニュートン力学的な「静止した二点間に生ずる力」とライプニッツ(またその論敵であったデカルト)的な「運動」という「力」、という2つの力学的な「力」の概念があったし、それに加えて「熱」や「電気」などは「力」と扱われていなかった。要約すれば、ヘルムホルツはそれらの意味を統一の理論で説明したといえる。静止している物質系を考えたとき、その静止した物質は「張力(ポテンシャル・エネルギー)をもっている。ダムの水は「ポテンシャル・エネルギー」(位置エネルギー、重力エネルギー)を持っていて、その水を落下させることで「力」(運動エネルギー)に換え、電力を得る。その電力で家庭のエアコンを動かし、温かさ(熱)を得る。そのように「力」あるいは今日の言葉でいえば「エネルギー」は、場面に応じて状態を変化させているにすぎない。このような考え方の出発点を用意したのがヘルムホルツである。彼は「ある系における運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの和、つまりその系のエネルギーはその系に特有なひとつの定数になる」ことを証明した。

 このヘルムホルツの指摘は今日、熱力学の第一法則として次ぎのように表現される。「孤立系のエネルギーの総量は一定である」。また、熱力学の基本法則のもうひとつに第二法則がある。「孤立系のエントロピーは減少しない」。孤立系においてはエントロピーは増大する、「分散した状態になっていく」一方である。このような熱力学のエントロピーの概念は今日のエネルギー問題ではもちろん、情報論の分野などでも基本概念になっている。ヘルムホルツは、張力・運動・熱・電気といった物理学の各分野を力・エネルギーという側面で統一的に扱えるような理論を用意した。それはつまり、私たちが「エネルギー」と呼んでいる言葉の意味を作り出したのだといえるだろう。


リーマン(Georg Friedrich Bernhard Riemann)1826〜1866

 ドイツの数学者。リーマン積分やリーマン空間、リーマン面など幾何学においてなじみが深く日常的な感覚でもわかるのがユークリッド幾何である。直角三角形の直角をはさむ辺をX・Y、斜辺をZとおいたとき、Xの2乗+Yの2乗=Zの2乗(三平方の定理)となる。そのようなユークリッド幾何があった。ユークリッド幾何はギリシャ時代から体系化されていて、その体系は5つの「公理」に還元されていた。その「公理」のひとつに「平行線の公理」がある。「直線外の一点を通って、その直線と交わらない直線(つまり平行線)を一本引くことができる」。他の4つの公理は別の公理からそれぞれ導き出すことができたが、この「平行線の公理」だけは他の公理から導き出すことができなかった。「平行線の公理」は他の公理から独立したかたちとなっていた。そこで仮に独立しているのなら、つまり「平行線の公理」を変更しても他の公理に影響がないのなら、「平行線の公理」にアレンジを加えても体系として成立するのではないだろうかと考えた。ロバチェフスキーとボリャイは「平行線の公理」を「直線外の一点を通って、その直線と交わらない直線を無数に引くことができる」とした。その結果、ユークリッド幾何(平面幾何学)とは異なる幾何学体系(双曲線幾何学)が成立したのである。非ユークリッド幾何ができてしまったのである。

 リーマンはもっとすごいやり方で、「平行線の公理」を「直線外の一点を通って、その直線と交わらない直線を一本も引けない」、さらに「線分を無限に延長できる」という公理を「線分は有限である」、「2点間に線分を一本引ける」を「何本でもひける」と変更して、また別の非ユークリッド幾何(球面幾何学)を生み出した。また、『幾何学の基礎をなす仮説について』では極小や極大での幾何学の成立や、多次元量の扱い方などを模索した。リーマンはこのような日常的感覚からかけ離れた数学(虚数などもその例をいえる)の必要性を感じとっていたといえる。こうしたリーマンの業績は19世紀のみならず、20世紀の物理学、あるいは科学の発展において重要な位置を占めているといえる。


マックスウェル(James Clerk Maxwell)1831〜1879

 イギリスの物理学者。『熱学』『電磁気論』など。マックスウェルの仕事もさまざまな分野に広がっている。『エンサイクロペディア・ブリタニカ』のために書かれたこの『原子・引力・エーテル』は文字どおり、「原子」「引力」「エーテル」に関する記述である。これらは当時の考え方を知る上で貴重な資料であるが、ここではマックスウェルの業績のなかでも影響がもっとも大きいと思われる「電気現象」と「磁気現象」に関する、いわゆる「マックスウェルの方程式」についてふれる。

 マックスウェルは「電気現象」と「磁気現象」を統一に扱うような枠組みを打ち出した。その枠組みにしたがって電磁気に関する方程式が次々に発見されていく。方程式を発見したのはマックスウェル自身でもないし、彼は単に「電気」と「磁気」の統一理論を記述したにすぎないが、その後の研究で細部での間違いは見つかっても理論の中心的な考えは正しいことが証明されたのである。例えば「引力」などの力が地球と太陽の間で影響しあう。そうした遠隔的な力が伝わるのであれば、両者の間には力を媒介させる連続体があるはずだと考えられた。すなわち「エーテル」である。光が波動としてやってくるのなら、音が空気を媒介に伝わるように、「エーテル」が媒介している。その後「エーテル」は否定されたけれども、それでもなおマックスウェルの電磁気論は成立したのである。そしてこの話は量子力学における「光の粒子と波動の二重性」や「場の理論」、「統一場の理論」「大統一場の理論」などの20世紀の科学思想へとつながって行く。


マッハ(Ernst Mach)1836〜1916

 オーストリアの物理学者。哲学者。ウィーン大学を卒業後、グラーツ、プラハの数学・物理学の教授をへて、ウィーン大学の哲学の講座を担当。音響学・電磁気学・力学・光学・熱力学に関する研究と共に感覚生理や美学・心理学等の広汎な分野に興味を示した。著書としては「力学史」「熱学史」「光学史」ある。特にこの中で試みたニュートン力学の時間・空間概念の批判はアインシュタインに刺激を与えた。この種の研究を素材として、科学的説明の本質についての思惟経済の説を唱える。

 ニュートンが提唱した経験主義的な方法論に基づく科学の扱いかたに根本的な懐疑を抱き、物理学の歴史的・批判的研究を通して現状打破のための具体的手段を追求することを試みた。そこでマッハが提唱したのが「一般的方法論」である。それは特定の主張とは独立したものであり、もちろん、マッハがよく好んで使った仮説、感覚を要素とする、ということも含まれる。一般的方法論とはあくまで、ある特定の主張を判別、検討する立場を提供するものである。

 しかし、主観、客体をまっ二つにして、主客二分を前提にするのではなく、主客の境界が無いということも考えにいれるのである。ここで問題になるのは、リアリズム(意識を越えた独立の存在)のとらえかたのあやまりをリアリズムに頼らずに検知する可能性はどこにあるかということだ。マッハは感覚にあるといっている。そして、その要素としての感覚と感覚の間の規則的な結合関係を見つけるのである。ここで、注意しなくてはならないのはマッハは感覚というものをあくまで、選択可能な可能性の一つとして採用しているのであって、前提とはしていないのである。一般的方法論のいうところは実在、感覚、どちらも前提として考えるべきではないということである。(もちろん、両者を相闘わせるルールを提供することはありうる。)そして、最終的な目的とは次のことである。要素間の複雑な結合によって、自ら隠される単純で規則的な関係を以下の手段、仮定をとり除くと共に、精神、物質の対立も放棄により、要素そのものの発展を見つけだすことである。

 以上のような特定の仮説に対して批判を常におこないながら、その仮説に基づいて導きだされた結果を展開するという手続きによって、ニュートン物理学とニュートンの哲学の支配的影響の結果として失われていた科学と哲学との再統一を図った。


ボルツマン(Ludwing Boltzmann)1844〜1906

 ユークリッド空間中の質点、ニュートン力学に基盤をおく。彼の物理学はニュートン的力学と運動的粒子論にはまだ組み尽くされていない可能性が蔵されており、この信念の下で既存の理論の内容を可能な極限にまで展開するものであった。現代の科学思想において原始論と統計的推論が果たしている中心的役割は、このような彼の物理学ないし、思想に負うところが大きいということができる。

 彼はまたダーウィンの熱烈な支持者であり、進化の思想を思考の進化へと拡大適応する。「我々のアイディアは試行錯誤的な適応の過程の結果である。」というのが彼の生物学的理論である。

 ボルツマンは当時の公認の哲学一般に対して、それらが本質的に幼稚な理論を除去する効果のあったことは認めたが、それらが終局的心理はすでに発見されてしまったとして自らを発展させることをしない点を批判した。同様な批判は同時代の物理学者にも向けられ、特に経験を越えることなく、その意味で将来の発展の中で残されるべき現象論的物理学を作り上げたとする物理学者の指導者であるマッハたちに対して非難を浴びさせた。ボルツマンの不満と批判の根拠には、知識の仮説的な性質の認識というある意味ではマッハと共通する立場がある。ただし、ボルツマンの場合、知識の仮説性についての論理はマッハのそれと対立するばかりでなく、さらに生物学的な意味での仮説性という点がつけ加わっている点が特徴的である。


パブロフ(Ivan Petrovich Pavlov)1849〜1936

 ペテルブルグ大学でメンデレーエフ等の教えをうけ、生理学に興味を抱く。軍医アカデミーに助手として勤務し、外科技術と実験生理学的研究に優れた才能を示す。1890年アカデミーの薬理学教授となると共に、実験医学の新しい研究所の生理部門の長となり97年同教授、この間に行った消化の生理学的研究、特に胃液の分泌を制御する神経機構の解明によって1904年ノーベル賞をうける。犬の唾液の分泌量の測定による「条件反射」を研究し、行動主義心理学の理論、学習の理論に大きな影響を与えた。

 特定の過程の追求を目的にしたときに、主題を追求しながら一見副次的な反応にたえず注目することによってとらえられる統一的描像が、追求されていた主題の意味をはじめて明らかにするという生体作用固体の論理は、生物体の全一性は構造内に組み込まれており、その構造はまた長い進化の産物であるとする存在の法則的・歴史的側面を統一する課題へつながることになる。


メンデル(Gregor Johann Mendel)1822〜1884

 アウグスティヌス教団に入り、1847年聖職者となる。教団派遣の学校教師となるため1851年ウィーン大学で数学・自然科学を修め、1864年にブリュンの中学校の教師となった。数学と物理学とに興味をもち、二つの学問を結び付けて、趣味としての植物学の研究を行った。1857年から8年間修道院の庭でエンドウを栽培し、有性生殖の場合の形質の遺伝についてのメンデルの法則を発見した。(佐藤)