政策学・応用倫理学・基礎倫理学

ゼミ担当者・鎌田 康男

1999年度研究演習I授業方針より抜粋


 関西学院大学総合政策学部は、実効性・即効性が期待される「政策」と、長期的・総合的視野をもった「ヒューマンエコロジー」という、(一見)対立する視点の共生をはかろうとする。それは、利益至上主義と自然環境保護との緊張関係の中で「人と自然の共生」をどのように実現させてゆくべきか、という現代の問題意識に呼応するものである。しかし、「総合政策学」の使命への問いはさらに、自分の利益にしか関心を持たない近代市民の自己中心主義が経済的豊かさをもたらすと同時に「人と人との共生」(愛)を崩壊させ、人の孤独化を助長するにいたったのはなぜかという本質的な問いへと展開する。なぜなら、そのような近代市民の自己中心的攻撃性こそが、人間環境のみならず自然環境をも単なる手段=資源として利用し破壊するにいたった精神的基盤だったからである。そのような認識を鎌田ゼミは次のようなモットーによって表現する

 − 「自然(環境)学の本質は、人間(環境)学である。」


 鎌田ゼミでは、そのような人と人・人と自然の共生への問い、実践と理念との媒介の問題にアプローチするために「応用倫理学」を研究のメインテーマとする。応用倫理学は、一方で実践に向かう「政策」、他方で理念に向かう「基礎倫理学・哲学」の問題意識と成果とを相互に媒介する重要な結節点という位置をしめる。

[1] 「政策」は、その時々の標準的価値観(人間観・自然観)を前提とした上での即効的、実効的な問題解決へと向かう。たとえば、ダイオキシンの値が許容値を超えた場合、あるいは地球上のある地域で食糧危機が起こった、という場合、どのようにして値を正常値にもどし、どのようにして飢餓の被害を最小限に食い止めるかを多角的に検討し、もっとも合理的な問題解決を提案することが(狭義の)政策的課題である。あるいは、環境基準を再検討し、飢餓を防ぐために産児制限等の措置を効果的に施行するなどの措置も行なわれるかも知れない。

[2] 「応用倫理学」は、標準的価値観内部の理解のずれや、多様な価値観の時代・地域的な差違を問題とし、それぞれの立場と前提とを明確に描きだすために、より長期的に、全社会的・学際的な視野から検討を加える。たとえば、種々の消費に基づく物質的生活の向上と、消費の制限につながる環境保護とのバランスに関して、どの程度の巾で一般市民が受け入れるべきであるか、また受け入れることができるか(持続可能な発展の条件はどのようなものであるか)、人口増加によって、地球規模での食糧危機の回避が避けられないと思われるとき、富める国はどの程度の援助義務を負うのか、むしろ限られた収容能力しか持たない救命ボートを沈めないためには、援助の制限も正当化されるのか、といった問題は、応用倫理学に属する。これら価値観にかかわる問題を素通りして、プラグマティックな妥協案 − それは、問題を[1] のレベルにシフトさせてしまうことになる − を提示するだけでは、問題をさらに深刻化させ、問題の先延ばしに終わる危険が大きいだろう。

[3] 「基礎倫理学・哲学」においては、「応用倫理学」が通常拠り所としている前提そのもの、現在のわれわれが誰でも合意するであろう最低限かつ共通の価値観にまで立ち入って検討する。現代では自明のものとして受け入れられている価値観が、有史時代以来数千年のスパンで見ても高々2〜300年ぐらいの歴史しかもたないものであり、これから何世代後にはまた異なるものになっているかも知れない、という認識のもとで − 人間は、常に、現在の価値観こそが絶対・最上で、もう永遠に変わらない、変わってはならないものだ、という迷信から今もなお逃れることができないのだろうか − 現在の価値観(人間観・自然観)の人類史的な位置づけ、将来何世代にもわたるような長期的な問題(環境に関する「世代間倫理」の問題など)、さらには、80億年後に到来する太陽系の終焉と、それ以前にいつかおこる人類の滅亡などの極限概念によりながら、現代に生きる私たち人間の生と死の意味をも確認するという課題もある。


 上記[1][2][3] は、それぞれ独自の問題発見・問題解決の基準をもっており、それらを混同して議論することは危険である。[1] のレベルでどのようにしてダイオキシンの空気中濃度を効果的に下げることができるかを調査している研究者に向かって、どうせ人類はいつか滅亡するのだからむだなことさ、などという議論は、[3] のレベルの研究に、そんなことを議論していったい何の儲けになるのか、何の役に立つのかと反論する愚かさににている。今日多様に分化した専門領域は、他の研究領域との対話による自己自身の知のネットワークにおける位置づけを十分に行なっているとは言えない。それどころか、専門領域の多くが、他の研究領域への無知と無関心のゆえに、自分こそすべての問題を説明・解決できる諸学の帝王であると僭称する有様である。しかし諸学は、知と現実のネットワークにおいて自分が占める位置を確認することによって初めて、学際的といえるあり方を獲得するであろう。そこに、総合政策学部の(未完成な)理想を推し進める意義と必然性とがある。


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