はじめに
はじめに → エコツアーとは → 日本と海外との比較 → エコツーリズムの本質(3/3)

エコツーリズムに求められるもの

前述のように、エコツーリズムとは比較的新しい概念であり、その定義に関してはいまだ明確な規定が定まっていません。また日本エコツーリズム協会が掲げるエコツーリズムの目的の一つとして地域固有の資源を生かした観光の成立をあげましたが、これからもわかるとおりエコツーリズムはそれを行う地域により多種多様であり、百ヶ所あれば百通りのエコツーリズムがあるべきなのです。このことがエコツーリズムの明確な定義を定めることをさらに困難にしているといえます。しかしそれは逆に言えば、エコツーリズムが他の旅行とは根本的に異なったものであらしめる「エコツーリズムの本質」さえ押さえていれば比較的柔軟に、自由にエコツアーをプランニングすることができるということであると我々は考えます。


「エコ」の要素

 それでは「エコツーリズムの本質」とはいったい何なのでしょうか。なにをおいてもまず忘れてはいけないのが、「エコツーリズム」の核になる部分、すなわち「エコ」の部分です。「エコ」という語については「エコツーリズムの定義」の項で述べた通りですが、やはりこの「エコ」なしでは言葉の上からも他のツーリズムとなんらかわらないものになってしまいます。それでは「エコ」さえ含んだ旅行であればエコツーリズムと言えるのでしょうか。そうではありません。これも前述のように、「ただ自然環境や文化遺産に触れるだけのツアーならエコツーリズムがメジャーになる以前からあったではないか」と思う人も多いと思います。このようにただ「エコ」の要素を踏まえていればそれはエコツーリズムかといえば、首を傾げざるを得ません。エコツーリズムの本質はもっと別のところにあるのではないでしょうか。


「学び」の要素

我々がエコツアーとしての失敗・成功を含めた多くのケースを通して学んだ結果、全てのエコツアーに普遍的であるべきエコツーリズムの本質とは、学びであると考えます。前述のような「ただ自然環境や文化遺産に触れるだけのツアー」においてはこの「学び」の要素が欠如しているか、またあったとしても付属的なものとして扱われていることが多く、「ああよかった。また来たいね。」で終わることが多いのではないでしょうか。

「エコツーリズム」の項で観光の歴史について簡単に述べましたが、そもそも観光が文化として成立した背景にはイギリスの貴族の子弟によるイタリアやフランスへの勉学旅行の習慣があり、その目的として「学ぶ」とか「人間的な成長」があったのです。しかし観光がより大衆化するに伴いこのような「学び」の要素は薄れ、「旅の恥はかきすて」という言葉に表されるような「遊び・楽しみ」の要素のみが観光の概念として強調されるようになりました。このようにして現在ではお隣さんに「ちょっと観光旅行に行ってきます」というと「がんばってね」ではなく「あらぁいいわねぇ、楽しんでらっしゃい」という返事が返ってくるのです。

エコツーリズムはこのような観光概念を見直し、もう一度観光の原点にかえった「学び」や「人間的な成長」を可能にするツーリズムだといえます。ところで我々現代人は日常生活において「時間」や「空間」など実にさまざまな制約に縛られています。たとえば腕時計を忘れて時間が分からずに困った、などという経験をしたことがある人は一人二人ではないでしょう。このような制約により我々は気付かないうちに大きなストレスを抱えてしまっているのです。エコツアーとして原生自然や原住民社会に身をおくことはこれらの制約から我々を解放してくれます。その結果、より多くのことを学び、吸収することができ、家に帰ってから健全な心と体で新たな気持ちで生活を始めることができるのです。

環境音楽やうつくしい自然をうつしたTV番組等疑似体験を可能にするものが多々あるにも関わらずわざわざ現地を訪れることの意義はやはりそこにあるのではないでしょうか。


参加する側の責任

 ここまでエコツーリズムの本質として「学び」の要素について述べてきました。「ああ、自然環境や文化遺産に触れてなにかを学び、人間的な成長を期待できるような観光が理想的なエコツーリズムなのか」と思っている人も多いことでしょう。しかしそれはまだ「持続可能な観光(sustainable tourism)」であるべきエコツーリズムとして非常に大事なことを忘れています。それは、米国の環境団体エコツーリズム・ソサエティが端的にエコツーリズムを『「責任ある旅」の形態』と表しているように、参加する側の責任です。

極端な話、もし上記のようなツーリズムがあったとして、珍しい形の蕾をつける木を見た参加者がそれをもっとよく観察する(学ぶ)ために枝を折って持って帰ったらどうでしょうか。それは持続可能どころか自然破壊に他なりません。さきほど「制約からの脱却」として原生自然や原住民社会へのエコツーリズムについて述べましたが、山田勇氏(京都大学東南アジア研究センター)はこれについて「最終的にはガイドも含めたエコツアーにおける全ての制約からも解放され、案内なしでぶらりと原生自然や先住民社会を訪れ、そこで得たものを軸にして新たな出直しをはかるようなものがエコツアーの完成型」と言っています。このような場合は参加者の行動を監視し、資源の劣化を招かないように誘導するべきガイドが存在しないため、特に参加する側の責任が多大に要求されるでしょう。

現在いくつかのエコツアーにおいて、観光業者がエコツーリストの「せっかく原住民社会にいくのだから、なにか変わったもの、“それっぽいもの”を見なければ来た意味がない」という願望に答えてより多くの利益を得るために、原住民の人々に実際は普段は行わないようなこと(例えば歌や踊りなど)を無理強いさせるといことが実際に問題になっています。原住民の人々は収入のために仕方なく従わざるを得ず、彼らにとって観光客は決して好ましい存在ではないそうです。また観光客は病気や外の文化、他の土地の植物の種などを一緒に持ち込み、無意識のうちに結果として現地の文化や生態系を撹乱してしまうことも珍しいことではありません。このような事態を避けるために、エコツアーにおいて観光客はその土地に関する知識などを十分にもつとともに自然環境や地域の人々の生活文化に配慮した責任のある行動をし、またツアーを選ぶ際にもエコツーリズムの趣旨にそぐわないようなツアーは選ばないなどの姿勢が要求されるのではないでしょうか。


 ここまで読まれた人はおそらく「なんだ、エコツーリズムなんて堅くて全然面白くなさそうじゃないか。わざわざ休暇を使ってこんなツアーに参加するなんて馬鹿げている。」と思っているのではないでしょうか。そんなことはありません。確かに「学び」や「責任」というと堅いイメージのほうが強く、拒絶反応を示してしまう人も多いでしょう。しかし「自然環境や文化資源の保護」を目的とするエコツーリズムの性質上、ある程度の責任が伴うのは仕方のないことです。

また「学び」といっても参考書を読み、知識を詰め込むだけの「学び」ではありません。さまざまなことを実際に体験することから得られる感動を通しての「学び」です。いくら自然環境に関する知識をつめこんだとしてもそれは到底本当に自然を守ろうという気持ちには結びつかず、またそこには実際に自然に触れた時に得られる喜びはないでしょう。インターネットを使い世界中のありとあらゆる情報を瞬時に手に入れられる今日、このように自分の実体験を通して新たな知識を吸収することは非常に貴重な、また喜ばしい機会なのではないでしょうか。

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